111202bs001.jpgフォルクスワーゲンの歴史

フォルクスワーゲンの生みの親は、みなさんもよくご存知のフェルディナント・ポルシェ博士です。自動車黎明期を代表するエンジニアのひとりとして、現在でもその名が轟いている人物です。
オーストリアで生まれ、電気技術者であった彼は、ダイムラー〜ダイムラー・ベンツの技術者へ転身した後も数々の高性能モデルを手掛けました。その後、自動車の設計事務所を設立したポルシェ博士は1933年、当時ドイツ政権を担っていたナチス党党首アドルフ・ヒトラーと出会います。ここで、ポルシェ博士が理想としていた小型大衆車の開発に着手することとなりました。それが有名な「国民車構想」であり、そこで生まれた自動車が後の「フォルクスワーゲン・タイプ1」です。

話はそれますが、私が小学生の頃「フォルクスワーゲン・ビートルを1日に何台見かけるか」を競っていた時期がありました。それはクルマ好きの子どもだけに限ったものではなくて、ほとんどすべての子どもたちがこぞって「かぶと虫」を探しながら通学をしたものでした。とくに「黄色いかぶと虫」を見つけるとその日は1日幸せになれるという噂もまことしやかに流れていました。まるで「幸せの黄色いハンカチ」のような話ですが、今にして振り返ると、それほどフォルクスワーゲン・タイプ1は見る人の気持ちを穏やかにし、思わず微笑んでしまうような存在だったことが理由ではないかと思います。
そんなことを回想しながら、ポルシェ博士の数多いトピックスのなかでひとつ思い出したことがあります。晩年のポルシェ博士が、自身が設計したタイプ1を街なかで見かけると嬉しそうに足を止め見送っていた......というお話です。その出来事の背景とは・・・。

ポルシェ博士が、ヒトラーの国民車構想に基づいてフォルクスワーゲン・タイプ1の開発を手掛けたことは前述のとおりです。それは、ポルシェ博士が抱いていた「高性能なスポーツカー」、「農業用のトラクター」、そして「国民誰もが乗れる小型乗用車」を実現するという夢への第一歩でもあったのですが、現実は少し違っていました。ドイツ政府のバックアップにより自動車の開発に注力できることはポルシェ博士にとって喜ばしい限りだったはずです。しかし、ポルシェ博士の夢が実現できていた時期は短時間に過ぎず、第2次世界大戦の勃発とともに軍事用車両の開発を余儀なくされ、国民のためのクルマの実現は遠のいてしまいました。結果、キューベルワーゲンやシュビムワーゲンなど現在でも画期的な機能をもつ車両や、戦車の設計までも手掛けることになり、不本意ながらドイツ軍の軍事力を高めることに大いに貢献しました。

ところが戦後、この車両開発が原因でポルシェ博士は戦犯として2年間もの間フランスの刑務所に投獄されてしまうのです。ポルシェ博士が政治的にどの程度関わっていたのかは諸説あるようですが、自動車好きのわたしたちとしては、純粋に自動車作りに邁進してきた博士が結果的に戦争に協力してしまうことになった...と解釈したいと思うのはいけないことではないはずです。
投獄されている間、博士の小型乗用車への夢は息子のフェリーによって受け継がれました。フェリーは、ポルシェ博士の保釈金を工面するためにポルシェ社を興したのです。ポルシェ博士の夢のひとつであった高性能なスポーツカー「ポルシェ356」の開発・生産を開始し、本業を全うすることで父親の保釈金を支払うことができたフェリー。ポルシェ博士は釈放後、自らが設計した「国民誰もが乗れる小型乗用車」や実現を夢見ていた「高性能なスポーツカー」が街なかを走る姿を目にし、やっと自らの夢が実現したことを実感したことでしょう。

(Text by S.KIKUTANI)


菊谷 聡(きくたに さとし)
輸入車最大手ディーラー勤務後、CARトップ編集部副編集長を経て現在は自動車専門コンサルティング会社を経営するかたわらエディターおよびライターとして活動。また、自動車を絡めたライフスタイルを中心とした講演、自動車メーカーのセールス研修コンサルタント&インストラクター、企業オーナーのパーソナルコーチとしても活動中。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員。伝説のVWバイブル"BREEZE"誌においても、生方編集長の元寄稿をしていた経歴をもつ。

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