091009kawa001.jpg吉野家、すき屋、松屋。チェーン展開している牛丼屋はいくつかあって、それぞれに個性的である。どこも一定の味のレベルは確保されているので、出先で急いで食事をするような場合に、店のチョイスに迷う必要もなく入りやすくて便利である。私の住んでいる近所には吉野家があって、ときどき利用する。吉野家は店によって若干の味の違い(ばらつき)があったりするのだが、そこの店は吉野家の中でもかなり美味い方だと思う。
この吉野家でときどき割引券を配る。牛丼が50円引きだから割引率で言えば結構デカイ。ところがこの割引券がなかなか使えないのだ。有効期限とか効力の問題ではなくて、私の能力の問題でだ。券はいつも財布に入れてある。そして注文をするくらいまではそれを出そうと思っている。ところが牛丼を食べ始めると目の前の牛丼のことで頭が一杯になってしまい、食べ終わる頃には心地よい満腹感とともに割引券のことは綺麗サッパリ忘れているのだ。

牛丼を食うために(あえて「食べる」ではなく「食う」と言おう)、私の場合どうやら相当の頭を使っているようなのである。むしろ真剣勝負と言っても良いかもしれない。生卵に醤油をどのくらい入れるか、それから卵をどのくらいかき混ぜるか、かき混ぜた卵をどのように牛丼に均一にかけるか、唐辛子は何振りするか、生姜をどのくらいのせるか、準備段階から勝負が始まっている。そう、これは単なる食事ではなく、男の勝負なのだ。

とくに卵を溶いて掛けるのは熟練の技が必要だ。均一に掛けたつもりが、卵白の粘弾性のために一箇所に引き寄せられるように流れて染み込んでいったりする。一箇所に卵白が集中して染み込んだ場合、その部分は白身だらけでちょっと残念な感じの味になってしまう。だから掛けた卵が染み込む様を、染み込みきるまで子細に観察しなければならいのである。生意気に粘る卵白があれば、間髪を入れず箸を使って介錯してやる。

卵を均一に掛けたいのには、もう一つの理由がある。一般的に吉野家の牛丼はすき屋の牛丼よりもご飯の温度が高い。つゆの温度も高いかもしれない。とくに、最寄りのこの店は温度が高めで、これが美味しさの重要な要素になっている。かけた卵が熱で微妙に固って半熟状態になるのだ。すき屋の場合、卵は暖まるだけで固まるまではいかない。吉野家の牛丼と言えども、卵が一箇所に多くかかるとナマのままになってしまうから、半熟にするためにも均一さが必要なのだ。

食い始めてからは、なお真剣になる。例えば、どの部分から箸を付けるかがとても重要だ。肉を少し向こう側によけて、始めはご飯大目のバランスで口に掻き込む。吉野家の肉は、すき屋の肉よりも一片が大きく、つながっている。なので不用意に掻き込むと、向こうの方の肉まで引きずり出して食ってしまい、あとがご飯ばっかりになる。肉とご飯の口に入れるバランスも大切だが、そこに生姜やタマネギも絡んできて、掛けた生卵が不均一だったりすると、さらに難しくなる。

ちょっと失敗して、最後の一口が肉なしの卵掛けご飯になってしまったりすると、敗北感を味わう。かといって最後一口の一口前で不自然にご飯だけ掻き込んで、たった一片の肉を勿体付けて辻褄を合わせるのも男らしくない感じで嫌なのだ。どのタイミングでみそ汁をすするかも重要だ。牛丼に夢中になっているとみそ汁をすするのを忘れてしまう。最後にみそ汁だけを流し込むと胃袋の納まりも今ひとつだ。やはりみそ汁は要所要所で一口ずつすすってこそ意味がある。

最後まで食べ終わって、となりの見知らぬお兄ちゃんとどっちが速く食えたかも気になったりする。お兄ちゃんの方が僅かに後から注文したけど、食い終わったのはほぼ同時。ってことは、お兄ちゃんの勝ちか。しかし、自分は食い終わった時点でみそ汁も綺麗になくなっていたが、お兄ちゃんのみそ汁は半分以上も残っていて、あとからすすった。これは自分の勝ちか。すると、差し引きの総合ポイントでは、互角ということなのか・・・。

心地よい満腹感とともに、いろんな意味での真剣勝負が終わり、今日のこの一戦を振り返りながら「ごっそうさまぁ!」と大きめの声を出す。そこで店員が一発で反応するかどうかが最後の勝負なのだ。この「ごっそうさま」の掛け声が他のお客とかぶったりしたら気分が悪い。今日は混み合って忙しそうな中、一発で勘定を取りに来たので、気持ちよく締めくくることができた・・・と満足したのが早計だった。そしてこの早計が油断につながった。

「並、みそ汁、卵で、480円です」という声を聞き終わるまでもなく、無造作に500円玉を差し出す。「ビシッと決まったな」と心で思い、20円のお釣りを受け取った一瞬後に、「しまったぁ、割引券を出し忘れたぁ」と気づいたが、その期に及んで「あぁ、やっぱりこの割引券使えますか?」・・・なんてことが聞けようか?そんなことをしたら、ここまでの良い流れが台無しだ。店員はもう次の仕事に向かってるし、言えば衆目の前で負けを認めるようなものだ。

ここは痩せ我慢で見栄をはるしかない。「次回使おう」と無理目な納得で黙って店を出た。背中にはダンディな哀愁が漂っているはず。心の中はなんだか受け身的な敗北感で締めくくられながら、家路に向かった。そんなことをもう何回か繰り返している。そのうちには券の期限も切れてしまうだろう。吉野家の割引券を使う能力のない、可哀想な私。たぶん、誰かの力を借りない限り、私が吉野家の割引券を使うことは一生無理かも(大げさ)。何か良い方法がないかなぁ。

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