潮流に逆らって泳いでいた
ヨーロッパを代表するヒストリックカー・ショーのひとつ「レトロモビル」が2024年1月31日から2月4日までフランス・パリで開催され、会期中に13万人が訪れた。
メーカー出展が連なるメインパビリオンでは、英国発祥で今日では中国系のMGがブランド創設100年を、またフォルクスワーゲンがGolfの誕生50年を展開した。
いっぽうポルシェは「Turboの50年」を繰り広げた。歴史背景を解説すると、1976年から施行されるマニュファクチャラーズ世界選手権の新規則で、グループ4/グループ5の参加には、最低400台以上の生産が義務づけられていた。そうしたなかTurboチャージド・モデルに期待をかけたポルシェは1973年9月、パリ・モーターショーで「911Turbo・プロトタイプ」を公開した。
競技におけるTurboは早くも翌1974年に実を結び、Carerra・Turboはワトキンス・グレン6時間レースとル・マン24時間レースで2位に入賞した。直後に市販された「911Turbo」は、誇張されたフェンダーと巨大なリヤスポイラーを備えた破壊的ともいえるエクステリアの中に、3リッター水平対向6気筒260ps Turboエンジンと4段変速機を備えていた。レトロモビルのプレスリリースに記された表現を借りれば、第一次石油危機のなか、その存在は潮流に逆らって泳ぐかのようだった。だが以来、911の各世代にはTurbo仕様が設定されるようになった。
大胆なポルシェ画伯
ブランド展示以外で発見した数々のポルシェについても紹介してゆこう。
公式オークション「アールキュリアル・モーターカーズ」のスターも、ポルシェであった。鮮やかなオレンジ色の1968年「991S」の元オーナーは、五輪アルペンスキー・チャンピオンで、モータースポーツの世界でも活躍したジャン=クロード・キリー氏(1943年- )が所有していたものである。売買は成立しなかったが、20万〜30万ユーロ(約3218万〜4828万円)の予想価格がつけられていた。
スイス・ジュネーヴを本拠とする超高級車スペシャリスト「キッドストン」は、1992年「シュッパン・ポルシェ962CR」を展示した。シュッパンは、オーストリアのレーシングドライバー、ヴァーン・シュッパンがかつて主宰していた工房。今回の出品車は7台製作した最後の1台で、走行距離は僅か800km弱である。
財布が軽いポルシェ・ファンのためにも、夢の1台が用意されていた。レトロモビル恒例となった「2万5千ユーロ以下」のコーナーだ。2001年初回登録・走行17万キロメートルの「Boxter986」の価格はぽっきり2万ユーロ(約321万円)で、ブースでもひときわ注目を浴びていた。
ネーキッド状態の911を相手に、5人のメカニックが格闘していたのは、サービス工場用工具サプライヤーのブースだ。同社が販売するツールを駆使して、1992年「Carerra Cup964」を会期中に可能な限りレストアしようという企画だった。
オートモビリア、すなわち自動車アートの世界でも、ポルシェを題材にしたものは数多くみられた。実車を所有できるうえ、それ以上の趣味を楽しめる富裕層需要が見込めるという背景が第一にある。だが、そのフォルムがアーティストの創作力を刺激するのもたしかなようだ。
大胆にも356のフロントマスクや911のサイドパネルを取り込んだ作品を出展していたのは、ドイツから参加したバスティアン・ショルナー画伯である。展示だけでなく、パレット片手に制作の実演もしていた。「作品は、観者を過去へといざなうものでなければなりません」と、その若き画家はモットーを語る。主要顧客は「販売店やプライベートオーナーです」という。
ボディ外板は、どのように手に入れているのか?と訊ねると、「この10年、欧州各地はもとより中東までヒストリックカー関連イベントに果敢に出展してきました。おかげでパーツを入手できるコネクションが少しずつ構築できたのです」と教えてくれた。石の上にも…という教訓は、彼の仕事にも当てはまる。
かくもパリの地でもポルシェ・ファンは、さまざまなモデルや人々と出会い、愉しめる。幸運な趣味人なのである。
(report & photo 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA)