画像: 1963年「ポルシェ901プロトティープ“クイックブラウ”」。2023年5月20日、グランドホテル・ヴィラ・デステで。

1963年「ポルシェ901プロトティープ“クイックブラウ”」。2023年5月20日、グランドホテル・ヴィラ・デステで。

「最高のエンジンサウンド」もポルシェ

世界的な自動車エレガンス・コンクールのひとつ、『コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ』が2023年5月19日から21日にイタリア北部コモで開催された。今回は53台がエントリー。8つのクラスのひとつとして、ポルシェの自社生産75周年を記念するクラスも設けられた。サブタイトルは「シュトゥットガルトの伝説における、象徴的かつ稀代のバックカタログ」である。

画像: 審査員団が確認中。オーナーには、エンジンが始動するか(実動状態か)、歴史的書類は揃っているかといった指示が、次々と投げかけられる。手前左は、今回新たに加わったフランソワ・メルシオン氏。パリ「レトロモビル」ショーで長年オーガナイザーを務めた人物である。

審査員団が確認中。オーナーには、エンジンが始動するか(実動状態か)、歴史的書類は揃っているかといった指示が、次々と投げかけられる。手前左は、今回新たに加わったフランソワ・メルシオン氏。パリ「レトロモビル」ショーで長年オーガナイザーを務めた人物である。

同クラスには8台が参加。最古は1954年の「356 pre-A」だ。新車時にもっとも重要な市場であった米国に送られたもので、1981年の初回レストアに加え、2016年にさらにオリジナル状態に戻すための復元が行われた。フロントフードを開けると、搭載されたスペアタイアのホイールまでクールな輝きを放っていた。今回は、クラスにおける選外佳作賞に選ばれた。

画像: ポルシェ75周年の参加車が集められた一角。手前はクラス中最古の1954年「356 pre-A」。

ポルシェ75周年の参加車が集められた一角。手前はクラス中最古の1954年「356 pre-A」。

画像: スペアタイヤの上に見える木の棒は、燃料タンクに差して正確な残量を計るために使用。

スペアタイヤの上に見える木の棒は、燃料タンクに差して正確な残量を計るために使用。

画像: 他のポルシェ参加車から。1964年「904カレラGTS」。FRP製ボディの製造は、航空機メーカー、ハインケルによる。

他のポルシェ参加車から。1964年「904カレラGTS」。FRP製ボディの製造は、航空機メーカー、ハインケルによる。

画像: 1964年904カレラGTSのコクピット。数々のヒルクライムに使用されたにもかかわらず、エンジンはオリジナルである。

1964年904カレラGTSのコクピット。数々のヒルクライムに使用されたにもかかわらず、エンジンはオリジナルである。

いっぽう最新は1998年「911 GT1」だった。当時FIAのGT1クラスで出場する条件は、公道走行用車両を最低25台製造することだった。ポルシェは911GT1を21台しか生産できなかったにもかかわらず、FIAは黙認したというエピソードが残っている。今回の参加車は、ポテンシャル・カスタマーに引き渡された1台である。

画像: 1998年「911GT1」がパレードの順番を待つ。

1998年「911GT1」がパレードの順番を待つ。

もう1台、その日脚光を浴びたポルシェがあった。1970年「917K」だ。フェルディナント・ピエヒの指揮下で製作されたスポーツカーで、空冷180°V型12気筒ターボエンジンが搭載されていた。車両はオーストリア・ザルツブルクのポルシェの拠点から、1972年に米国のディーラーに渡った。カラーリングは時代を象徴するマルティーニ&ロッシだ。この車両は、今回初めてヴィラ・デステに創設された「もっとも素晴らしいエンジンサウンド」賞に輝いた。パレードでは、審査にあたった世界的テノール歌手ヨナス・カウフマンから、現オーナーであるベルギーのクリストフ・ダンサンブール伯爵に賞状が手渡された。

画像: 声楽家ヨナス・カウフマン(左)と、「もっとも素晴らしいエンジンサウンド」賞の1970年「917K」。

声楽家ヨナス・カウフマン(左)と、「もっとも素晴らしいエンジンサウンド」賞の1970年「917K」。

画像: 1973年「911カレラ RS2.7」、1976年「934」そして1979年「935」。5月21日、4年ぶりに一般公開が行われたヴィラ・エルバ会場にて。

1973年「911カレラ RS2.7」、1976年「934」そして1979年「935」。5月21日、4年ぶりに一般公開が行われたヴィラ・エルバ会場にて。

画像: 別のクラス「ル・マン24時間レースの1世紀」に参加した1976年「936/77」。3台製造されたワークスカーの1台で、77年にジャッキー・イクスらが駆って同レースで優勝した。

別のクラス「ル・マン24時間レースの1世紀」に参加した1976年「936/77」。3台製造されたワークスカーの1台で、77年にジャッキー・イクスらが駆って同レースで優勝した。

あのルーフ氏の「最初の1台」

参加したポルシェの中、ひときわ純粋な印象を放っていたブルーの911があった。いや、厳密にいうと、1963年フランクフルトでの発表直後、先に「0」をはさむ全3桁数字を商標登録していたプジョーからクレームが入って改名する前の901である。901として生産されたのは100台弱といわれる。さらに今回は、そのプロトタイプなのだ。正しくは「901プロトティープ“クイックブラオ”」という。

画像: 「901プロトティープ“クイックブラオ”」。このクルマにも数奇なヒストリーが秘められていた。

「901プロトティープ“クイックブラオ”」。このクルマにも数奇なヒストリーが秘められていた。

オーナーはアロイス・ルーフ氏。ピンときた読者は多いと思うが、ポルシェをベースにしたハイパフォーマンス・カーで知られるRUFの2代目社主である。

筆者のインタビューに、ドイツ・バイエルン州プファッフェンハウゼンからやってきたルーフ氏は解説する。「クルマは1962年から64年の間に13台造られた901テストカーのうちの1台です」。開発時ポルシェによって13台には、それぞれにシュトルムフォーゲル(ミズナギドリ)、ツィトローネンファルター(黄色いチョウ)といったニックネームが付けられていた。「現存するのは2台で、1台は米国にある7号車のバルバロッサ(赤ひげ王)、そして、もう1台が6号車である私のクイックブラオです」。Quickblauとは「俊足の青」を意味する。

ルーフ氏の説明は続く。ポルシェはクイックブラオを用いて大規模なテストを実施。担当したのはエンジン開発責任者だったピエヒ自身だった。その後65年から車両は911エンジンの設計者であるハンス・メッツガーによってカンパニーカーとして使用された。やがて67年、メッツガーはシュトゥットガルトの個人オーナーに売却するが、新オーナーはクイックブラオで事故を起こしてしまう。

「そのクラッシュした個体を購入したのが、私の父でした」。父とはRUFの創業者アロイス・シニア氏である。「当時18歳だった私に、『これがお前の最初のポルシェだ。自分で直せ』とね」とルーフ氏は笑う。
「同時に父からは、911の水平対向6気筒エンジンは、『お前には高性能すぎる』と告げられました。そこで912の水平対向4気筒エンジンに換装したのです」。修理を終えたルーフ氏は、人生初のポルシェを、18歳から3年間にわたり楽しんだという。

その後、彼の901は惰眠を貪ることになる。だが調べるうちに、この"クイックブラオ "は901試作車のうち、911の重要なアイコンとなる5連メーターが初めて装着された車両であることが判明した。

画像: のちの911シリーズにおける5連メーターを初めて採用した試作車である。右端の時計も、1から12まですべての数字が記されているところが、量産型と異なる。

のちの911シリーズにおける5連メーターを初めて採用した試作車である。右端の時計も、1から12まですべての数字が記されているところが、量産型と異なる。

2020年から22年にかけて大規模なレストアを実施。それにあたり、エンジンは初期の911用を発見して載せ替えた。ニックネームの元となった美しいブルーも、忠実に再現を行った。

画像: エンジンは半世紀以上前、ルーフ氏の父親が「ハイパワーすぎる」と言って912用のフラット4に載せ替えたが、今回のレストアにあたり、初期の911用に載せ替えられた。

エンジンは半世紀以上前、ルーフ氏の父親が「ハイパワーすぎる」と言って912用のフラット4に載せ替えたが、今回のレストアにあたり、初期の911用に載せ替えられた。

ルーフ氏が再生した現存する最古の901プロトタイプは、見事クラスウィナーに選ばれるとともに、「審査員によるもっとも象徴的な自動車」賞も受賞した。

ヨーロッパの美術史を俯瞰すると、14-16世紀のルネサンス、18世紀半ばの新古典主義(ネオ・クラシシズム)といったように、たびたび古典に回帰したムーブメントがみられる。ルーフ氏のクイックブラオは、911史にとって古代ギリシアやローマに相当する。911は、今回のヴィラ・デステのように原点を識者たちが見直すに値する壮大なヒストリーを紡いできた。だからこそファンを魅了し続けているのだと再認識した筆者であった。

画像: 911“クイックブラオ”と、オーナーのアロイス・ルーフ氏。

911“クイックブラオ”と、オーナーのアロイス・ルーフ氏。

(report 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA photo 大矢麻里 Mari OYA, Akio Lorenzo OYA)

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