イタリア直送 大矢アキオの
そのようなことから、イタリアまで持ってきてしまい、つい18年近くも持ち続けてしまった。今年こそ、そろそろ手放さなければ、と思って書き始めたのが、以下の文である。
ボクの持っていたマッチボックスの中には、フォルクスワーゲンの「かぶと虫」こと、ビートルもあった。おぼろげな記憶だが、赤く塗られたそのビートル1500は、両親がそれをボクに見せながら「今度は、これとおんなじクルマがウチに来るよ」といっていたのを覚えている。したがって、彼らは我が家にビートルが来るのを待ちきれず、ミニカーを買ったのかもしれない。
かぶと虫! ビートル! マッジョリーノ!
これまでの人生でボクは、ミニカーを何度か処分しようと思った。しかし、外箱をなくしたこともあり、専門業者の見積もりでは、たいした値段にならない。かといって、ゴミ箱に捨てるのは、なんともしのびない。
第3回 手のひらのVWキャンパー
そのようなことから、イタリアまで持ってきてしまい、つい18年近くも持ち続けてしまった。今年こそ、そろそろ手放さなければ、と思って書き始めたのが、以下の文である。
* * *
1970年代に子ども時代を送ったボクが収集していたミニカーといえば、マッチボックスである。まだ本当の英国製だった頃だ。正直をいうと小学3年の頃、一時Nゲージ鉄道模型に浮気したことがある。親に頼んで、近所の建具屋さんから要らなくなった雨戸をもらい、線路を打ちつけた。しかし、雑誌「鉄道ファン」を読むにあたり、本格的ジオラマを完成させるには、到底子どもの資金力では不可能であることを悟って撤退を決断、ミニカーに戻った。
東京西郊に住んでいたボクの場合、ミニカーは主に立川の伊勢丹へ家族で買い物に行くたび買ってもらった。おもちゃ売り場があるのは8階で、マッチボックスは今日の日本ブランド系ミニカーのように、専用ショーケースに入って販売されていた。
「遊ぶ」といっても、他人とマッチボックスで遊ぶことはなかった。あるとき、両親の知り合いのボクより小さな子どもが来て、親に言われるまま見せたら、ミニカーをテーブル上から何度もコンクリート床の上に突き落とされたからだ。マッチボックスは丈夫なので、そんなことで壊れなかった。だがそれ以来、たとえ親戚であろうと、ミニカーに手を触れさせることはなかった。孤独なコレクターである。
ボクの持っていたマッチボックスの中には、フォルクスワーゲンの「かぶと虫」こと、ビートルもあった。おぼろげな記憶だが、赤く塗られたそのビートル1500は、両親がそれをボクに見せながら「今度は、これとおんなじクルマがウチに来るよ」といっていたのを覚えている。したがって、彼らは我が家にビートルが来るのを待ちきれず、ミニカーを買ったのかもしれない。
パサートのご先祖であるファストバックのタイプ3こと、VW1600TLや、ホットロッド風ビートル、ビートルをベースにしたサンドバギーもあった。また、タイプ2キャンパーは新旧(第1世代・第2世代)があった。それらを走らせて遊んだのは、折り畳み式の厚紙に田園風景を印刷した、マッチボックス純正の、いわば簡易ジオラマだった。
実をいうと、当時のボクは、もっと身近な日本の風景を模したジオラマが欲しかった。しかし、30歳のとき、イタリアに移り住んだときだ。欧州の国々では、都会を一歩出るといきなり田舎になることがわかった。そしてまさに子どもの頃遊んだマッチボックスの簡易ジオラマのような風景が広がっていた。
さらに、こちらでキャンプを始めてみると、タイプ2の末裔であるフォルクスワーゲン・ベースのキャンパーに何度も遭遇した。そして「若い頃はタイプ2のキャンパー、持ってたよ」と懐かしそうに、かつ自慢げに話す年季の入ったおじさんに、たびたび出会った。
思えば、ボクがマッチボックスで遊んでいた頃、本物のVWキャンパーは若者の自由の象徴として地球の裏側で全盛だったのだ。
木造家屋の畳の上は、ヨーロッパに繋がっていたのか。VWキャンパーを手のひらで転がしながら、そんな思いを馳せていたら、またまたミニカーを捨てられなくなってしまった年始めであった。
(冒頭の写真)マッチボックスにはホッドロッド風ビートルもあった。赤いクルマには「フォルクスドラゴン」、緑のクルマには「ドラゴンホイールズNo.43」と刻印がある。ちなみに奥の紫色は、同じビートル改でも、米国トンカ製。
(中央の写真)筆者が今も保管しているマッチボックスのVWファミリー。手前のビートルは、モンテカルロ・ラリーのプレートが付いている。奥はタイプ3の1600TL、そして2世代のタイプ2。いずれも前後サスペンション付きで、開閉可能部分のアクションは、今もって確実だ。
(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)