140317-Oya-02.jpgイタリア直送 大矢アキオの
かぶと虫! ビートル! マッジョリーノ!

第7回 アウディ80と掛けて、アイドルのデビュー時代と解く

時は移り、免許を取得して大学生になったボクは、ときおり親のアウディ80を借りて、出かけるようになった。1985年のことだった。
前回は、フォルクスワーゲン"かぶと虫"ことビートルの後に、1981年型アウディ80がやってきたことを記した。

左ハンドルも、当時一般的になる前夜だったドアミラーも、慣れればなんとかなった。ところが前回書いたように、わが家のアウディ80は、GLEではなく、スタンダード仕様のLEだった。LEの決定的なGLEとの違いは、3段オートマチックではなく5段マニュアルであること、パワーステアリングが省略されていることだ。

廉価版になってしまったことは第一に我が家の経済上の理由であったが、実はもうひとつ理由があった。父いわく、「息子が将来マニュアルでも、パワステなしでも困らず乗れるように」という配慮だったらしい。「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父、星一徹かよ、と思ったものだ。

初心者ゆえギアチェンジに気をとられて、到底ドライビング・プレジャーなどという領域には達しない。メーター内には、一定の回転数に達すると点灯し、シフトアップを促す「シフトインジケーター」なるお節介なものが付いていて、これまた初心者には戸惑った。

クラッチもしっかり重い。運転したあと、しばらく左足が痺れた。ステアリングも、「パワステ付き教習車」が売りの自動車学校を卒業したボクにとっては、ひたすら重かった。「これは、アウトバーンでの高い安定性のためなんだ」と唱えて自分を納得させた。

ときおりキャンパスにも乗って行ったものの、同じ専攻の先輩女子たちがフランス車やスウェーデン車に涼しげな顔で乗っているのが羨ましかった。アウディ80LEは内装のムードも今とは違い、よくいえばシンプル、悪くいえば、かなりぶっきらぼうであった。とくに、附属中学以来の女の先輩が5ナンバーのポルシェ924 AT仕様に乗ってきたときは、「同じアウディ・エンジンなのに、なんたる違いよ」と80LEを嘆いた。

それでも後年、父が新しいクルマに乗り換えて、アウディ80 が自分専用になったときは嬉しかった。まずは父が装着していたヤナセ純正純白レース・シートカバーを取り払った。キーホルダーも、父が長年使っていた靴べら兼用の革製から、「愛車セット」に付いてきたアウディ・ロゴ入りに変えた。

そういえば、今の女房をアウディ80でディナーに誘ったことがあった。彼女の残り香が逃げないように、翌日からなるべくドアを開けないようにしていたのは、よい思い出である。ただしパワステなし&重いクラッチは、自分のものになっても変わらない。

国立(くにたち)あたりの洒落たレストランというのは、なぜかきまって狭い駐車場で、取り回しのとき本当に泣けた。にもかかわらず当の女房に今聞けば、そのときを、あまり覚えていないらしい。とほほ、である。

その後アウディ・ブランドは、クワトロ攻勢とエアロダイナミクスをはじめとする先進イメージで、プレミアムとしての地位を着々と築いてゆく。しかしボクはその前夜といえる、素朴を通り越して朴訥な時代のアウディを80LEで体験することができた。

それはビッグネームになる前、小さなライブハウスで演奏していた頃のシンガーや、アイドルの中学卒業直後の、あどけない新人時代を知っているようで、ちょっぴり誇らしい。

だから世界各地のモーターショーでアウディ・ブースを訪れるたび、スゴいコンセプトカーを前に、「ボクはキミの、あの時代を知っているんだ」と心のなかで呟きながら、ムフフと楽しんでいるのである。
 
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(冒頭の写真)わが家の近くにあった水防倉庫の前にて。カッコいいという理由で、用もないのに走行中パワーアンテナを伸ばしたり縮めたりして走っていた、己の浅はかさよ。

(上の写真)大学1年生の筆者と、1981年型アウディ80LE。着用しているのは、PERSON'Sのトレーナーだったような。

(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)

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