“ビートル伝説”の再現を期待されて
長年のフォルクスワーゲン(VW)ファンには釈迦に説法であろうが、空冷リアエンジン時代のVWには、「タイプ」と称する分類法があった。初代「ビートル」がタイプ1、トランスポーターがタイプ2、今回は説明を割愛するが1500/1600といわれたモデルがタイプ3だった。それに続くタイプ4が今回の主役である。
タイプ4の初期型である「411」は、1968年9月からドイツで生産が開始された。ビートルのプラットフォームを流用しつつ、より大きな2ボックスのボディが与えられていた。全長×全幅×全高は4525×1635×1485mm(日本仕様)。2023年ゴルフと比較すると230mm長く、155mm狭く、そして10mm高かったことになる。サスペンションは前がストラット+トレーリングアーム、後がスイングアクスルの全輪独立懸架であった。水平対向4気筒エンジンはツインキャブレターによる1679ccで、76ps/5000rpmを発生した。変速機は手動4段もしくは3段ATが用意されていた。
室内では、空冷エンジンの貧弱なヒーターを補うガソリン式ヒーター、フルリクライニング式フロントシートなど快適装備の充実が図られていた。同時に、前後の衝撃吸収ゾーン、いずれもパッド入りのダッシュボードやステアリング・ホイール、衝撃吸収式ステアリング・コラムなど安全装備も盛り込まれていた。
しかし今日メーカーも認めるとおり、当初から市場での人気は限定的だった。1968年の販売台数は約2万台。1969年には電子燃料噴射版および3ドア・ワゴン「ヴァリアント」が追加され、ようやく4万8千台を超えた。だが、第二次世界大戦後の生産再開から24年が経過しても年間100万台超という驚異的ペースで生産されていたビートルには遠く及ばなかった。
タイプ4は1972年には大幅なフェイスリフトが施され、「412」へと発展。続く1973年にはエンジン出力の向上が図られた。しかし、タイプ4の年間生産台数はモデルサイクルを通じて8万台を超えることはなかった。そして1974年、前年に誕生した水冷エンジンの前輪駆動車・初代「パサート」にその座を譲るかたちでカタログから消えていった。
筆者自身は、少年だった1970年代初頭にタイプ4の思い出がある。筆者が住んでいた東京郊外の町で、当時VW車は少なかった。我が家のビートル、呉服店のアイキャッチ兼運搬車だったタイプ2トランスポーター…と、オーナー同士を知っていたくらいだった。そうしたなか、町のガラス屋さんがタイプ4を所有していた。
子ども心にも、そのデザインは、あまりに朴訥だった。だが、その広い室内は我が家のビートルと比べて魅力的に映った。とくに、後席の収納式アームレストが羨ましく、人の家のクルマだというのに、後席に乗り込んでは出したり仕舞ったりしたものだ。
41年をともに
2023年7月7-9日のことである。筆者が住むシエナ県で、「レジェンダリー・インターナショナルVWミーティング」が開催された。イタリアの愛好会「マッジョリーノ(注:maggiolinoとはイタリアにおけるビートルの愛称)クラブイタリア」や地元VWショップのオーガナイズによるこのイベントは今回で第37回。イタリア国内のVWイベントとして、連続開催記録を更新中である。参加台数は国外からも含め、約190台に及んだ。
期間中は、例年どおり毎日小さなツーリングが組まれた。筆者が彼らを待っていたのは最終日である日曜日のワイナリーツアー会場だった。午前11時近く、参加車たちが、トスカーナの典型的風景である糸杉の向こうからやってきた。多数派であるビートルのパレードが続く。フラット4の大合唱が、さきほどまで静寂に包まれていたぶどう畑に響き渡った。
そのときである。ビートルたちに混じってやってきた1台に思わず目を奪われた。そう、タイプ4である。駐車したオーナーは、ダッシュボードの劣化を防ぐため、すかさずサンシェードをフロントウィンドウに広げた。クルマへの愛情を感じた。これは声をかけるしかない。
彼の名はステファノ・マッサ氏(1966年生まれ)。歌謡音楽祭の開催地として知られるサンレモから片道440キロメートルをかけてやってきたという。1970年式のインジェクション仕様「411LE」だ。ステファノ氏は語る。「兄が1982年に購入したものです」。車齢12年で手に入れたことになる。「のちに私が譲り受けました。つまり私たち家族は、まだ2代目オーナーです」
外装は再塗装を施したものの、インテリアは新車時のものという。経年変化の少なさに、当時のVWの良心的なクルマづくりが窺える。
タイプ4の美点は?との質問に、ステファノ氏は「広い荷室スぺースと快適性」と答えた。実際、フロントのトランクを開けると、ストラット式サスペンションの恩恵による、広いラゲッジスペースが現れた。
ステファノ氏なりの観点から、タイプ4を総括してもらおう。
「不適切な市場セグメントに "フォルクスワーゲン(大衆車)”を投入しようとしたのが誤りでした。近年の『フェートン』と同じ失敗です」
セールス現場も問題だったと指摘する。「商品としてのタイプ4を、当初は販売店も十分理解していませんでした。競合車には無い魅力を訴求できたのは、ヴァリアント仕様だけでした」
加えてステファノ氏は、VWグループ内の他モデルと競合してしまったことも指摘する。「買収したばかりのアウディ-NSUアウトウニオン社製モデルと、そこから派生した VW K70との競争にタイプ4は晒されました。なにより、初代『アウディ100』の完成度を超えることはできなかったのです」
「若い頃は、ヴァカンスを兼ねて、この411LEでドイツのVWミーティングにたびたび遠征しましたよ」と振り返る。今回の旅程は片道440キロメートル。ある意味楽勝だったのだ。オーナーとなって41年。ステファノ氏はこれからも、走るVW史の断章と旅を続ける。
悲運に終わったモデルを愛し、大切に維持し続ける人との出会いは、どんな新型高級車オーナーよりも個人的には楽しいのである。
(report:大矢アキオAkio Lorenzo OYA ・ photo:Akio Lorenzo OYA/Mari OYA/Volkswagen)