イタリア直送 大矢アキオの
ビートルを選んだのには、理由があった。まず父の郷里が長野だったため、碓井峠を難なく越えるクルマが必要だったこと。英国車で懲りたぶん、できるだけ手がかからないクルマがよかったのである。
1972年、我が家に来て間もない頃のフォルクスワーゲン・ビートル1300。左は幼稚園年長組の筆者、右は両親が営んでいた店の常連さんの子ども。
(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)
かぶと虫! ビートル! マッジョリーノ!
第2回 白いかぶと虫到来!
手が掛かりすぎる中古英国車に困り果て疲労困憊したボクの両親が、代替車として白羽の矢を立てたのは、ずばりフォルクスワーゲン・ビートルであった。(写真は中学時代の筆者と、自宅前で)
ビートルを選んだのには、理由があった。まず父の郷里が長野だったため、碓井峠を難なく越えるクルマが必要だったこと。英国車で懲りたぶん、できるだけ手がかからないクルマがよかったのである。
もうひとつの理由は、前回も記したように、我が家が郊外だったことだ。その頃東京西郊で、米軍人相手の中古や並行輸入車を扱う外車屋さんは数々あった。しかし、正規輸入車を扱うところといえば、数駅先の昭島にヤナセの営業所があるのみだったのだ。
ヤナセのカタログに載っていたビートルは、スタンダードモデルの1200と、上級モデルの1300だった。バンパーがオーバーライダー付きの旧式だった1200よりも、よりモダーンなそれが装着された1300を父は選んだ。
かくして1972年のある日、我が家に白いビートル、当時の通称でいうところの「かぶと虫」がやってきた。
納車は我が家が営む店が終わったあとの夜だった。車庫で父のためにヤナセのセールスマンが助手席に座ってえんえんとコクピットドリルするのを、ボクは後席に座って一緒に聞いていた。最初は、「いつかボクも運転する日が来る」と思って必死に追っていたが、やはり子どもには少々難しく、途中で眠くなった。
* * *
我が家のかぶと虫は、父いうところの安全ベルト(シートベルト)、安全枕(ヘッドレスト)がオプションで装着されていた。
ダッシュボードはスチール製で、下端には塗装工程で固まってしまった塗料が、小さなつららのごとく、いくつも垂れ下がっていた。だからボクはしばらくの間、助手席に乗りながら、それをポキポキと折るのが楽しかった。
当然のことながら、空冷のかぶと虫はオーバーヒートと無縁だった。前の英国車の影響で、クルマには水補給用のやかんが必携品と信じていたボクは「やかん要らないの?」と、真顔に父に尋ねたものだ。父には、ウォッシャー液の圧送にスペアタイアのエア圧を用いる賢い仕掛けであることも教えてもらって感心した。
いや、それ以前に、以前の英国車ではダッシュボードに付いていたウィンカーのスイッチが、コラムから生えているだけで感激した。
ただしボク個人的には不満もあった。前の英国車の座席が革だったのに対し、かぶと虫はビニールシートゆえ、座るとお尻が冷たかった。車内に漂うマテリアル臭も機械臭に限りなく近く、苦手だった。
メーター内のターンシグナル作動インジケーターにもがっかりした。当時すでに日本車は、たとえ大衆車でも、右を出せば右の矢印が、左を出せば左の矢印がカッチンカッチンと点滅した。ところが、かぶと虫は両方向に矢印が突き出た形のインジケーターがひとつ付いているだけだった。つまり左右共用で、右に出そうと左に出そうと同じものが点滅した。
不満はまだあった。幼稚園のクラスメイトの家の2ドア日本車の後席には、コーラポケットなるものがあって、清涼飲料の瓶が入れられるようになっていた。さらにダッシュボードの上端が棚状になっていて、ティッシュペーパー、メモ帳から人形までいろいろなモノが置けた。対して、かぶと虫はコーラポケットなど無いのはもちろん、ダッシュボードも断崖絶壁で何も置けない。ついでにいえば時計も付いていなかった。
「これぞ媚を売らぬジャーマン・デザイン」などと称賛する自動車雑誌の読者になるずっと前である。子どもには、そうした些細なことが妙に悲しかったのである。
それでもビートルはトラブルフリーで、路上でストップしたことは我が家にあった10年間、一度たりともなかった。
* * *
父は今日のボクと違い、英国車の時代からクルマをいつも徹底的に磨くタイプだった。だからかぶと虫は、何年たっても新車のごとくピカピカだった。いつも丁寧に運転していたので、外装のダメージも一切なかった。車内を汚す飲食も厳禁だった。
ところが、だ。ボクが小学生だった、ある日のことである。クラスメイトが当時まだ珍しかったファミリーレストラン『すかいらーく』の細長いスティックシュガーを学校に持ってきて自慢したので、ボクも親にせがんで墓参りの帰りに寄ってもらった。
そのとき駐車場で、父はクルマ止めがあるのに気づかずバックしてしまい、例のバンパーをぶつけてしまった。当時の日本車とは比べ物にならない頑丈なスチール製バンパーゆえ、ダメージは「言われればそうかな?」という程度の僅かに歪みで収まった。
にもかかわらず、父はかぶと虫を傷つけてしまったことを、のちのちまで悔やみ、縁起を重んじたのか、その日を最後に一家でファミリーレストランに行くことはなかった。
そこまで神経質な親と、寵愛されたかぶと虫のもとで育ちながら、今のボクはといえば、クルマは汚しっ放し、運転中はつまみ食いし放題である。父は、忌まわしくあの世から眺めているであろう。<つづく>
1972年、我が家に来て間もない頃のフォルクスワーゲン・ビートル1300。左は幼稚園年長組の筆者、右は両親が営んでいた店の常連さんの子ども。
(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)