“ビートル伝説”の再現を期待されて

「レジェンダリーVWミーティング」のワイナリー・ツアー会場にやってきた、1970年タイプ4。2023年7月9日、シエナ県バデッセで撮影。

長年のフォルクスワーゲン(VW)ファンには釈迦に説法であろうが、空冷リアエンジン時代のVWには、「タイプ」と称する分類法があった。初代「ビートル」がタイプ1、トランスポーターがタイプ2、今回は説明を割愛するが1500/1600といわれたモデルがタイプ3だった。それに続くタイプ4が今回の主役である。

タイプ4の初期型である「411」は、1968年9月からドイツで生産が開始された。ビートルのプラットフォームを流用しつつ、より大きな2ボックスのボディが与えられていた。全長×全幅×全高は4525×1635×1485mm(日本仕様)。2023年ゴルフと比較すると230mm長く、155mm狭く、そして10mm高かったことになる。サスペンションは前がストラット+トレーリングアーム、後がスイングアクスルの全輪独立懸架であった。水平対向4気筒エンジンはツインキャブレターによる1679ccで、76ps/5000rpmを発生した。変速機は手動4段もしくは3段ATが用意されていた。

タイプ4の本国版カタログから。キャッチは「Der Große aus Wolfsburg(ヴォルフスブルクの大物)」で、そのゆとりあるサイズが暗示されていた。

室内では、空冷エンジンの貧弱なヒーターを補うガソリン式ヒーター、フルリクライニング式フロントシートなど快適装備の充実が図られていた。同時に、前後の衝撃吸収ゾーン、いずれもパッド入りのダッシュボードやステアリング・ホイール、衝撃吸収式ステアリング・コラムなど安全装備も盛り込まれていた。

カタログでは、「ポルシェと同じタイプのシャシーです」とアピール。ただし、速度よりも安定性に重点を置いていると説明されていた。

しかし今日メーカーも認めるとおり、当初から市場での人気は限定的だった。1968年の販売台数は約2万台。1969年には電子燃料噴射版および3ドア・ワゴン「ヴァリアント」が追加され、ようやく4万8千台を超えた。だが、第二次世界大戦後の生産再開から24年が経過しても年間100万台超という驚異的ペースで生産されていたビートルには遠く及ばなかった。

タイプ4は1972年には大幅なフェイスリフトが施され、「412」へと発展。続く1973年にはエンジン出力の向上が図られた。しかし、タイプ4の年間生産台数はモデルサイクルを通じて8万台を超えることはなかった。そして1974年、前年に誕生した水冷エンジンの前輪駆動車・初代「パサート」にその座を譲るかたちでカタログから消えていった。

412(左)。1970年に投入されたK70(右)と。

412ヴァリアント

筆者自身は、少年だった1970年代初頭にタイプ4の思い出がある。筆者が住んでいた東京郊外の町で、当時VW車は少なかった。我が家のビートル、呉服店のアイキャッチ兼運搬車だったタイプ2トランスポーター…と、オーナー同士を知っていたくらいだった。そうしたなか、町のガラス屋さんがタイプ4を所有していた。

子ども心にも、そのデザインは、あまりに朴訥だった。だが、その広い室内は我が家のビートルと比べて魅力的に映った。とくに、後席の収納式アームレストが羨ましく、人の家のクルマだというのに、後席に乗り込んでは出したり仕舞ったりしたものだ。

41年をともに

2023年7月7-9日のことである。筆者が住むシエナ県で、「レジェンダリー・インターナショナルVWミーティング」が開催された。イタリアの愛好会「マッジョリーノ(注:maggiolinoとはイタリアにおけるビートルの愛称)クラブイタリア」や地元VWショップのオーガナイズによるこのイベントは今回で第37回。イタリア国内のVWイベントとして、連続開催記録を更新中である。参加台数は国外からも含め、約190台に及んだ。

期間中は、例年どおり毎日小さなツーリングが組まれた。筆者が彼らを待っていたのは最終日である日曜日のワイナリーツアー会場だった。午前11時近く、参加車たちが、トスカーナの典型的風景である糸杉の向こうからやってきた。多数派であるビートルのパレードが続く。フラット4の大合唱が、さきほどまで静寂に包まれていたぶどう畑に響き渡った。

午前11時前、空冷VWたちが次々とキャンティのワイナリー「チリエージョ」にやってきた。

そのときである。ビートルたちに混じってやってきた1台に思わず目を奪われた。そう、タイプ4である。駐車したオーナーは、ダッシュボードの劣化を防ぐため、すかさずサンシェードをフロントウィンドウに広げた。クルマへの愛情を感じた。これは声をかけるしかない。

1970年411LE。バンパーに後付けされた大径丸形フォグランプも、良き時代感を醸し出している。

彼の名はステファノ・マッサ氏(1966年生まれ)。歌謡音楽祭の開催地として知られるサンレモから片道440キロメートルをかけてやってきたという。1970年式のインジェクション仕様「411LE」だ。ステファノ氏は語る。「兄が1982年に購入したものです」。車齢12年で手に入れたことになる。「のちに私が譲り受けました。つまり私たち家族は、まだ2代目オーナーです」

ステファノ氏は兄が41年前に購入した411LEを引き継いだ。蛇足ながら、やはりタイプ4のTシャツは少ないのだろう。

外装は再塗装を施したものの、インテリアは新車時のものという。経年変化の少なさに、当時のVWの良心的なクルマづくりが窺える。

今日の目で見ると心細いが、当時パッド入りダッシュボードやステアリングは、最新の安全設計であった。

ドア開閉ノブやウィンドウ・レギュレーターは、ビートルのものが流用されている。

タイプ4の美点は?との質問に、ステファノ氏は「広い荷室スぺースと快適性」と答えた。実際、フロントのトランクを開けると、ストラット式サスペンションの恩恵による、広いラゲッジスペースが現れた。

ビートルのそれと比較すると、格段に広く実用的なラゲッジルーム。

アームレストが奢られた後席。6ライトの室内はきわめてルーミーである。

ステファノ氏なりの観点から、タイプ4を総括してもらおう。
「不適切な市場セグメントに "フォルクスワーゲン(大衆車)”を投入しようとしたのが誤りでした。近年の『フェートン』と同じ失敗です」

セールス現場も問題だったと指摘する。「商品としてのタイプ4を、当初は販売店も十分理解していませんでした。競合車には無い魅力を訴求できたのは、ヴァリアント仕様だけでした」

加えてステファノ氏は、VWグループ内の他モデルと競合してしまったことも指摘する。「買収したばかりのアウディ-NSUアウトウニオン社製モデルと、そこから派生した VW K70との競争にタイプ4は晒されました。なにより、初代『アウディ100』の完成度を超えることはできなかったのです」

モデル名の末尾には、電子燃料噴射版を示す「E」が付いている。

エンジンルーム。開口部が狭いため、整備性はビートルに軍配が上がるようだ。

「若い頃は、ヴァカンスを兼ねて、この411LEでドイツのVWミーティングにたびたび遠征しましたよ」と振り返る。今回の旅程は片道440キロメートル。ある意味楽勝だったのだ。オーナーとなって41年。ステファノ氏はこれからも、走るVW史の断章と旅を続ける。

悲運に終わったモデルを愛し、大切に維持し続ける人との出会いは、どんな新型高級車オーナーよりも個人的には楽しいのである。

ステファノ氏と411LEの旅は、まだまだ続く。

(report:大矢アキオAkio Lorenzo OYA ・ photo:Akio Lorenzo OYA/Mari OYA/Volkswagen)