フォルクスワーゲンは1月15日、元フォルクスワーゲンAG取締役会会長であるProf. Dr. カール ホルスト ハーン氏が永眠したと発表した。
フォルクスワーゲン取締役会会長のオリバー ブルーメ氏は、「カール ハーンは先見の明を持っていただけでなく、素晴らしい人格者でもありました。40年間、フォルクスワーゲンが歩むべき道筋を定め、今日の会社の成功の基礎を築きました。米国では、その手腕により、フォルクスワーゲン ビートルがアイコンモデルとなりました。またセールス担当取締役として、プレミアム ブランドであるアウディの設立に尽力しました。比喩的な意味で、カール ハーンは“ゴルフ世代”の立役者の1人となりました。取締役会会長として、フォルクスワーゲンを国際的なマルチブランド グループに発展させ、とりわけ中国市場への参入にあたって戦略的ビジョンを示しました。ドイツの再統一後、ザクセン州はそのリーダーシップの下で、自動車産業における最先端の場所に生まれ変わりました。フォルクスワーゲンAGとウォルフスブルグは、カール ハーンに多大な恩義を負っており、謹んで哀悼の意を表します。カール ハーンは、今後もフォルクスワーゲン ファミリーの必要不可欠な一員であり続けます」と、ハーン氏に敬意を表してこのように述べた。
カール ホルスト ハーン氏は、1926年7月1日にケムニッツでカトリックの家系に生まれた。自動車産業に携わっていた父は、DKWが世界最大のモーターサイクル メーカーへと発展することに貢献し、1932年にはアウトウニオンの共同設立者の1人となった。ハーン氏は第二次世界大戦を無事に生き延び、1952年には、ベルンで博士号を取得。
1954年末、28歳のハーン氏は、当時のフォルクスワーゲンヴェルク(Volkswagenwerk)GmbHに入社し、ゼネラルマネージャーのハインリッヒノードホフのアシスタントになった。1959年には米国に派遣され、フォルクスワーゲン オブ アメリカを築き上げた。他のメーカーの模範となる販売組織を構築し、画期的な広告コンセプトを導入して、米国市場におけるフォルクスワーゲン ビートルの販売台数を65万台以上に伸ばすことに成功した。
ハーン氏は、40年間にわたってフォルクスワーゲンの戦略に永続的な影響を与えてきた。1992年末、取締役会会長の職を元アウディCEOのフェルディナンド ピエヒに譲り、同社の監査役会に移り、1997年6月まで監査役会のメンバーとして職務を全うした。ヨーロッパ出身のコスモポリタンであるハーン氏は、引退後も活動を続け、数多くの企業における監査役会での活動と、アウディ、セアト、シュコダの監査役会の名誉会長職が含まれているという。
企業家としての成功に加えて、文化的および社会的取り組みも広範囲に及んだ。ウォルフスブルグ美術館とそれに必要な資金を民間からまかなう活動は、ハーン氏が先鞭をつけたという。また、Antonius-Holling(アントニウス ホリング)財団、Ilsenburg Monastery(イルセンブルク修道院)財団、ドイツのMayo Clinic(メイヨー クリニック)財団、Volksbank BraWo(フォルクスバンク ブラウォ)財団の評議員会および理事会のメンバーでもあった。2006年、2013年に亡くなった妻と共にCarl and Marisa Hahn(カール&マリサ ハーン)財団を設立。この財団は、生活に困窮している人々の支援に加えて、幼児教育に焦点を当てているという。
(Text Toru Matsumura)