ポルシェを追い立てるビートル

2021年初夏、イタリア中部トスカーナで開催された「インターナショナル・フォルクスワーゲン・ミーティング」を訪れたときであった。

クライマックスのフェアウェル昼食会でのことである。同じテーブルに、ひとりの高齢ドイツ人女性がいた。イゾルデさんという彼女は、北西部のエッセン在住という。エッセンといえば、いずれもヨーロッパ屈指の自動車イベントである、チューニングカー・ショー「エッセン・モーターショー」や、ヒストリックカーの祭典「テヒノクラシカ」が開催される地である。その自動車ゆかりの地で、出版社を経営しているという。

その日彼女とは名刺交換こそ果たせたものの、帰国便の関係で食後のエスプレッソ・コーヒーもそこそこに遠来ゲスト賞のガラス製トロフィーを抱えたまま、慌ただしく旅立って行った。

2021年、イタリアのVWイベントで。ドイツ・エッセンからゲストとしてやってきたイゾルデ・デッカーさん(中央)

それから約1カ月後、我が家に一箱の小包が届いた。発送人を見ると、なんとイゾルデさんからだった。開けてみると、彼女が携わっている出版社「ACB」の刊行物が数冊入っていた。

最初に手にとった小冊子は、空冷ビートル愛好家向けのものだった。ドイツ国内チューナーや欧州開催イベントについて、名称・場所・参照先ウェブサイトが網羅された年刊である。とくにイベントは、同じ週末に国内各地で同時開催されているのがわかる。いかにフォルクスワーフェン文化が身近なものかが窺える。

空冷VWの国内チューナーや欧州内イベントが網羅された48ページの小冊子。

その後、最も立派な1冊を開いて驚いた。

『チューニングが、まだ整髪と呼ばれていた頃』。デッカー氏が生前に手掛けた車両を取り上げた1960-70年代の雑誌記事を集めたA4判292ページの本である。

2003年刊行の『チューニングが、まだ整髪と呼ばれていた頃Als Tuning noch frisieren hiess』と題されたその本は、テオ・デッカー氏の仕事について回顧されていた。同氏は1958年から1975年まで、エッセンで空冷VWのチューナーを「TDE」を主宰していたレジェンド的人物だった。

シリンダーヘッドを加工するため、フライス盤の前に立つテオ・デッカー氏の写真が。

そのテオ氏の妻こそ、筆者が会ったイゾルデさんだった。

本からは、いかに当時のファンたちがビートルの性能アップに情熱を傾けていたか、そしてデッカー氏が、彼らの要望に見事に応えていたことがわかる。

例として1302モデルを1950cc・135hp/5000rpmまで強化した「テオ・デッカー・ビートル」は、“ポルシェを追い立てられるビートル”といわれ、今日フォルクスワーゲンのファクトリー・コレクションにも加えられている。

テオ・デッカー氏がチューンしたVWのフラット4エンジン。シエナ県の「デイ・ケーファー・サービス」にて。

オリジナルのツイン・キャブレターやインテーク・マニホールドも製作。それらは欧州同様ビートルの普及国であった、南米ベネズエラにも輸出されていたことがわかる。

いっぽうで、1974年には初代ゴルフやシロッコといった水冷系のチューニングも試みたが、不況によってあまり需要を喚起できなかった、といった苦労話も発見できる。

テオ・デッカー氏が手掛けた1974年初代ゴルフも紹介されている。

テオ氏は惜しくも2016年4月に82歳でこの世を去っている。しかし幸い、TDEのブランドは北部バルト海沿岸の町キールにある「バルティック・ケーファー」社によって継承されている。同封されたイゾルデさんによる筆者宛の手紙には、「(バルティック・ケーファーのオーナー)シュテーン氏の大成功を願っているところです」と、温かい人柄を感じさせる言葉が綴られていた。

ふと思い出したのは、筆者がたびたび訪れる地元イタリアの空冷VWパーツ・ショップだ。1基のフラット4エンジンがオブジェのごとく飾られていて、オーナーはたびたび「これは、私たちにとって、まさにアイドルの仕事だ」と言っていた。もしやと思って、あらためて確認に赴いてみると、テオ・デッカー氏によってチューニングされたものだった。

残念ながら筆者自身は、古いフォルクスワーゲンに乗って楽しむ余裕を持ち合わせていない。だが、彼らの深い繋がりを垣間見るだけでも、限りない喜びに包まれるのである。

テオ・デッカー氏の仕事は、欧州の空冷VWショップ経営者の間で、今なお語り継がれている。(photo : ACB Verlag)

(文=大矢アキオAkio Lorenzo OYA/写真=Akio Lorenzo OYA, ACB Verlag)