第4回 ヤナセと「ワーゲン占い」
ヤナセとはいっても、芝浦の本社は見たこともない、いわば聖地であった。東京郊外住まいだったボクにとって、ヤナセとは昭島市の東京支店多摩営業所(当時)であった。新春展示会や新型車発表会のダイレクトメールが届くたび、ボクはその日が楽しみで開催数日前からソワソワして落ち着かなかった。それどころか、展示会終了後も、中に入っているチラシを、段ボール箱の中にまとめて後々まで大切にとっておいた。
当時のヤナセは今からは考えられないくらい素朴だった。展示会当日は、中古車コーナーのクルマを脇に寄せてスペースがつくられ、そこにフォルクスワーゲン/アウディをはじめとするドイツ車、米国車、さらにはスウェーデン車まで、ヤナセ取り扱いブランドの新車が散りばめられた。
ボクはそれら1台1台にかわるがわる乗り込むのが嬉しかった。ただし問題はドアロックのリリースレバーだった。フォルクスワーゲン系はわが家にあったビートルと基本的に同じだったので問題なかったが、米国車の一部は洒落たデザインになっていて、難解なものがあった。あるときリリースできず半ベソになっていたところを、セールスマンに助けられたこともあった。
脇にはテントが設営されて、中には当時ヤナセが扱っていたさまざまな品が展示されていた。米国ウェスティングハウスの巨大な冷蔵庫やマジックシェフのこれまた大きなガスオーブンが毎回鎮座していた。アラジン製のスタイリッシュなストーブ『ブルーフレーム』の青い炎もカッコよかった。
テント横には、同じくヤナセが輸入していた業務用灯油ヒーター『マスターヒーター』が置かれていた。ロケットを寝かせたような格好をしたそれは、ボーッという連続音をたてて、テント内の暖房を兼ねていた。
母親に無骨な鋳物コンロで暖めてもらった好物の『ハウス・ククレカレー』を、まだ冷凍室がわかれていない冷蔵庫から出した福神漬けとともに、掘りごたつにあたりながら食べてから赴いたボクである。ヤナセの展示会は、まさにプチ外国であった。
新春には餅つき大会もあって、わが家の担当セールスマンも杵を振りおろしていたものだ。景品が当たる福引きも用意されていて、気のいいセールスマンは、ボクが外れでも「ハズレの当たり!」といって、もうちょっと上の景品をプレゼントしてくれた。参考までに、当時の景品のほとんどは、今ほど本社によるノべルティのコントロールが厳格でなかったのだろう、多くがヤナセ主導で造られたものだった記憶がある。
フェアの日は営業所の建物内も、のどかだった。セールスマンたちの事務机を小学校の掃除タイムのごとく脇に詰めて、商談スペースが拡大されていた。したがって、壁には梁瀬次郎翁の肖像写真や、果ては「あなたは今年何台売りますか?」といった社内用ポスターまで残されていて、見えすぎちゃって困ったものだった。
このヤナセ展示会のおかげで、ボクは郊外にいながら、パサート、シロッコ、ゴルフ、そしてジェッタをいずれも日本発売直後に見ることができた。パサート発表のとき、会場の片隅に置かれたテレコ(死語)からエンドレステープで流れていた「パサ〜トぉ〜っ、パサ〜トぉ〜っ」というコマーシャルソングまで、いまだ脳裏に焼きついている。
* * *
ただし新世代フォルクスワーゲン車で、ちょっとした「問題」も起きた。
小学校の高学年のとき、巷で流行した「ワーゲン占い」だ。1日のうちにフォルクスワーゲンを見ればみるほどシアワセになれる、というものである。ちなみにヤナセ自身も、ムーブメントに便乗し、すでにビートルからゴルフに世代交代していたにもかかわらず、一時ビートルをかたどった記念品を展示会に用意したものだ。
「シアワセになれるワーゲン」とはビートルを指すことが一般認識であったが、小学校に向かう国立の通学路で、「ワーゲンに変わりないだろうが」と、パサートやゴルフも計上した。そのたび、フォルクスワーゲンファミリーを理解できないクラスメイトから「ずるい」と糾弾され、やがて仲間外れにされた。
前回のミニカー収集同様、自動車エンスージアストとは孤独であることを、小学生にして悟ったボクであった。
(左の写真)先日女房の実家から出土?した小学生時代のノート。「ドイツ・自動車工場」のキャプションが泣かせる。理科用なのは「科学の国ドイツ」ゆえか。
(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)
(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)