ハインリッヒ・ノルトホフ 
〜フォルクスワーゲン復活の立役者〜


フォルクスワーゲンの歴史を振り返るとき、忘れてはいけない人物は数多く存在します。今回ご紹介するハインリッヒ・ノルトホフもそのうちのひとりです。彼は第二次世界大戦後のフォルクスワーゲン拡販に際して深く関わり、尽力した人物です。
第二次世界大戦が勃発するまでは、「国民車構想」のもと順調に開発が進んでいたフォルクスワーゲン(当時の車名はKdFですが、ここでは車名をフォルクスワーゲンに統一します)でしたが、戦争が始まり戦火が激しくなるにつれて軍用車の製造へとシフトしていきました。とくにフォルクスワーゲンの空冷エンジンは極端な気候変動にも対応しやすいため、さまざまな戦地で重宝されたのです。結局、国民車とは名ばかりで、第二次世界大戦が終了するまでに一般国民がフォルクスワーゲンを所有することはありませんでした。
終戦後、現在フォルクスワーゲンの本拠地であるウォルフスブルク(当時はカーデーエフワーゲン市)はイギリス軍が駐留することとなりました。この事実は、その後のフォルクスワーゲンにとっては幸運だったといえます。なぜなら工場の管理責任者となったイギリス軍のアイヴァン・ハースト少佐は、フォルクスワーゲンの高い技術力と将来的な可能性をいち早く見出し、工場の復興に尽力したからです。

第二児世界大戦後のドイツ、とくに自動車工場はどこも壊滅状態でした。フォルクスワーゲンだけではなくアウトウニオンやダイムラー・ベンツなど、ドイツを代表する自動車メーカーはドイツ軍の軍事工場と見なされ連合軍による爆撃の標的となったのです。とくにフォルクスワーゲンの本拠地であるウォルフスブルクは「廃虚」と呼ばれるまでに徹底的な空爆に遭ったといわれています。しかしハースト少佐は製造途中であったフォルクスワーゲンの開発を復活させることを決め、復興に注力しました。
やがて生産が順調に推移するようになってくると、ハースト少佐が着手したことはサービス網の構築でした。民間人の手にフォルクスワーゲンが行き渡り始めると、そこにはアフターサービスが重要となってくることに、いち早く気付いたのです。そして、生産自体も民間に委ねるべきであるとし、イギリス軍より社長に任命された人物が、ハインリッヒ・ノルトホフその人です。

ノルトホフはベルリン工科大学を卒業後、BMWの航空機エンジンの開発を手掛け、オペル社へと入社します。オペルは1930年代からGM(ゼネラルモータース)の子会社となっていたため、ノルトホフはアメリカに渡り自動車の大量生産と販売、アフターサービスのノウハウを蓄積しました。オペルで頭角を現したノルトホフは取締役まで務めることになりますが、1948年にライバルであるフォルクスワーゲンへと移籍します。フォルクスワーゲン社の社長に任ぜられた後ノルトホフは、ハースト少佐の意志を引き継ぎ、生産、販売、アフターサービスを三位一体としてビジネスに築き上げていったのです。 
ノルトホフの優れた点は、敗戦により仕事に対する意欲が低下し疲弊しきっていた従業員たちのモチベーションを短期間で高めたことです。フェルディナント・ポルシェが設計をしたフォルクスワーゲンに対して大きな希望をもっていた従業員たちにとって、そこで培った技術が軍事目的に利用されたことは少なからずショッキングな出来事だったのです。そんなネガティブな意識は戦争が終結しても用意には拭えない状況だったことは、容易に想像ができます。
そこでノルトホフは、いかにフォルクスワーゲンが優れたクルマであるかというメッセージを、全従業員に対して情熱を込めて伝えたといいます。また、ノルトホフはいつも生産現場に身を置くことで、もっと効率的に作業を進めることはできないかと、つねに考えていたといいます。これは、ノルトホフがオペルというフォルクスワーゲンにとっては当時最大のライバルともいえるブランドでの経験があったからこそ、フォルクスワーゲンの優秀性を痛感し、この製品を1台でも多く世の中に送り出そうという強い意志と情熱があったからこそできたことでしょう。

その後のフォルクスワーゲンの躍進は、目覚ましいものでした。1949年にはアメリカに初めてタイプIを輸出。同年、カルマン社の手によるカブリオレも発売されました。これがアメリカ市場で大人気を博し、フォルクスワーゲンは全世界で認知されることとなりました。1950年には10万台目のタイプIがラインオフされるという快挙を成し遂げたほどです。ちなみに日本へは、1952年に4台のタイプIが輸入されています。翌1953年、ヤナセが108台のタイプIを輸入し、さらに翌年ヤナセはフォルクスワーゲンの輸入権を獲得することとなりました。
こうしてフォルクスワーゲンは、世界中の大都市で見られるベストセラーカーとなったのです。それはまさに、フェルディナント・ポルシェ博士が夢に描いていた「誰もが乗れる小型乗用車」の姿です。フォルクスワーゲンがBeetle(かぶと虫)、Bug(虫)という愛称で呼ばれ親しまれ始めたのも、ちょうどこの頃からのことです。

(Text by S.KIKUTANI)


菊谷 聡(きくたに さとし)
輸入車最大手ディーラー勤務後、CARトップ編集部副編集長を経て現在は自動車専門コンサルティング会社を経営するかたわらエディターおよびライターとして活動。また、自動車を絡めたライフスタイルを中心とした講演、自動車メーカーのセールス研修コンサルタント&インストラクター、企業オーナーのパーソナルコーチとしても活動中。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員。伝説のVWバイブル"BREEZE"誌においても、生方編集長の元寄稿をしていた経歴をもつ。