フォルクスワーゲンが今日のように日本中で愛されているのには、いくつか理由があります。工業製品として優れていることはもちろん、日本人のライフスタイルにパッケージや性能、価格が合致しているということがあげられるでしょう。さらに忘れてはならないのは、フォルクスワーゲン車の輸入・販売に尽力をしたひとりの人物がいたということです。それは、終戦と同じ1945年から2002年までの長きにわたり株式会社ヤナセを率いた梁瀬次郎です。 梁瀬次郎は、ヤナセの2代目社長です。ご存知のとおりヤナセは、日本において最大手の輸入車ディーラーです。ゼネラルモーターズ(以下GM)、メルセデス・ベンツ、アウディ、フォルクスワーゲン、BMW、ボルボなど、メジャーなブランドのほとんどを取扱っています。現在では販売が中心ですが、もともとは輸入商社として成り立っていました。「いいものだけを世界から」というキャッチフレーズのもと、世界中から高級品を輸入し販売をしていたのです。もちろん自動車がメインで、GM、メルセデス・ベンツ、アウディ、フォルクスワーゲンの日本における輸入権・販売権をヤナセは握っていました。
私は大学卒業後、8年ほどヤナセに勤めていました。東京都港区芝浦の本社ショールームが勤務地でした。ヤナセ在職中に梁瀬次郎と話をする機会は数えるほどしかありませんでしたが、勤務地がヤナセの本拠地だったこともあり梁瀬次郎にまつわるエピソードは毎日のように上司や先輩から聞かされていました。エレベーターに乗った瞬間に「閉」ボタンを押すのはあまりにも自分勝手な行動である。たった2〜3秒がなぜ待てないのかと、社内のエレベーターから「閉」ボタンを取り外してしまった話。挨拶を怠ると、たとえお客様の前であろうとステッキでひっぱたかれる話。会長の知り合いだからと値引きを要求するお客様に対して「知り合いなら値引きなしで買うべし」と要求を断る話。戦時中は工場で鍋や釜を作って会長自ら売り歩いた話...などなど。
なかでももっとも印象に残っている話は、フォルクスワーゲンの輸入販売権を巡っての、梁瀬次郎と父・長太郎とのやりとりです。時代は昭和27年。当時ヤナセ(当時の社名は梁瀬自動車でした)は、GMとの販売契約を結んでいました。しかし次郎は、日本政府による外貨規制や輸入車の輸入制限などによりGM車だけを扱っていたのでは会社の存続はおぼつかないと危惧していました。かたや長太郎は「GM車を扱うディーラーは他ブランドを扱ってはならない」というGMの方針を守ろうとしていたため、積極的にフォルクスワーゲンなどのドイツ車を扱うべきだとする次郎との間で考えが対立していたのです。
ちょうどこの頃、フォルクスワーゲンの社長を務めていた人物が、前回このコラムで紹介したハインリッヒ・ノルトホフです。まさに、彼が日本に4台のフォルクスワーゲンを持ち込んだタイミングと一致します。さっそく梁瀬次郎はノルトホフ社長と面談をしました。このとき、多くの企業がフォルクスワーゲンを扱いたいとノルトホフに面談を申し込んだといいます。しかし、とくにアフターサービスを重視したいノルトホフの眼鏡にかなう企業はありませんでした。そんななか次郎との面談によりヤナセのもつ販売力とアフターサービス体制に満足をしたノルトホフは、販売権を委ねる意志を表明しました。そこで、梁瀬次郎はGMとの問題がクリアになることを条件に、日本におけるフォルクスワーゲンの販売を引き受ける約束をしたのです。
この直後梁瀬次郎は、GMを説得するために単身、デトロイトへ飛びました。事前のアポイントメントもなく、かつ父・長太郎からは「もしもドイツ車を扱うつもりならば、即刻社長を解任する」とまでいわれていながらの行動だったようです。そして、日本での輸入車販売業の実情を説明し、フォルクスワーゲンブランドを扱うことを了承してもらったそうです。
フォルクスワーゲンを日本に広めたのはヤナセ。誰も異を唱える方はいないでしょうが、その陰にはカリスマ経営者梁瀬次郎の、社運と本人のクビをかけたエピソードがあったのです。
現在の日本における輸入車マーケットは、ヤナセが開拓したといっても過言ではありません。とくにフォルクスワーゲンというブランドを広く認知させた功績は大きいでしょう。フォルクスワーゲン車に乗ることで、より充実した楽しいライフスタイルが実現できることをヤナセはあらゆるユーザーに向けて発信しました。輸入車は楽しいもの。生活を豊かにしてくれるもの。そんな考えを日本中に広めたのです。その仕掛け人は、ほかならぬ梁瀬次郎でした。(文中敬称略)
(Text : S.KIKUTANI / Photo : YANASE & CO., LTD.)
■ 関連リンク: ヤナセ ヴィークル ワールド株式会社