9月中旬のフランクフルトショー取材の折、かねてから行こうと思っていたシュツットガルトのポルシェ・ミュージアムを訪ねた。そこでは、もちろん、フェルディナント・ポルシェ博士の偉大さを改めて知ることになるのだが、思い出したのは、このジンデルフィンゲンの地が、かつてはコーチビルダー、ロイター社の本拠地だったことだ。フォルクスワーゲンも無関係ではない。
■新しいポルシェ・ミュージアム
もうかなり昔だが、一度ポルシェ・ミュージアムを訪ねたことがある。その頃、ミュージアムは工場の中にあって、ゲートの守衛さんに来意を告げれば入れてもらえた。記憶は定かではないが、入場料は取られなかったと思う。ミュージアムが入っている建物は結構古く、展示スペースもそう広いものではなかったし、所狭しとクルマが並べられていたものの、その台数は50台未満でミュージアムというには少なすぎるように思えたものだ。代わりにというべきか、ミニチュアモデルが多数展示されていた。いまも参戦を続けるル・マン24時間参戦マシンのミニチュアがズラッと並んでいたような覚えがある。

後に、レカロ社を取材した時に合点がいくことになるのだが、その古い建物は、かつてポルシェ356のボディ生産を引き受けていたロイター社の社屋だったようだ。ロイター社とは、1906年にサドル(馬具の鞍など)のマイスターであったウィルヘルム・ロイター氏が起こしたボディ製作工場。社名がカロッセリエヴェルク・ロイターということでも分かるように、イタリア語でいうカロッツェリア、いわゆるコーチビルダーだ。当時、自動車メーカーはエンジンやシャシーを生産するものの、ボディは外部に任せるというパターンが多く、そのコーチビルダーの多くは前身が馬関連の工房だったところ。この4月に倒産が発表された、あのカルマン・ギアで有名なカルマン社も、前身は馬車工房というコーチビルダーのひとつだった。

ロイター社が戦後、ポルシェのボディ生産工場となったのは、戦前にロイター社がヒトラーの命を受け、Kdf(フォルクスワーゲン・タイプ1、つまり空冷ビートル)のプロトタイプ製作を、ダイムラー・ベンツとともに担当したという背景があるからだ。戦後すぐのポルシェは、工房を持つとはいうものの、基本的には設計事務所。自動車メーカーとしての設備はなく、そこで356の本格生産に当たって、シュツットガルトのロイター社にボディ生産ほかを委託したのだ。

ポルシェ社がロイター社のすべてを買収することになったのは、ポルシェの生産モデルが356から911に切り替わろうという'63年だ。それまでに、ロイター社は356の最終アッセンブリーラインまで有して、ポルシェの工場そのものになっていたが、911に代わって生産量の増大が予想され、新たな設備投資も望まれたことから、ロイター社の経営陣はポルシェ社に任せたほうがベターとの判断が生まれたとされる。

シートメーカーであるレカロ社が生まれる契機は、このポルシェ社のロイター社買収だ。ポルシェ社は、ロイター社の資産全面譲渡を受けるものの、シート生産に関しては再度、委託生産を持ちかけたという。余談ながら、現在のレカロという社名は、ロイター社の電報用のアドレスだったそうだ。REがロイター社の頭文字、CAROがカロッセリエの頭文字というわけだ。

レカロ社がスポーツシートの生産に着手するに至ったのも、ポルシェがキッカケ。サポート性が高く、かつ軽量なシートを、ポルシェに求められ、シェルにアルミを使う一体型のシートを作る。ボディ生産で培ったアルミ板金技術を使ってシェルを成型し、そこにクッションや表皮を直接貼り付けたもので、これがその後のスポーツシートの原点となる。'65年のことだったという。

新しいポルシェ・ミュージアムには、もちろんウォルフスブルグ市の紋章をエンブレムとした初期の空冷ビートルが展示されていた。それはフェルディナント・ポルシェ博士の最大の業績であって、ポルシェ社としても自身の歴史を綴る上で欠かせない存在であることを物語る。356のプロトタイプがこのタイプ1のサスペンションやエンジンを使って作られたというのは、あまりにも有名な話。
ここでは、ポルシェとフォルクスワーゲンが分かちがたい関係にあることを、改めて感じることにもなる。

新しいポルシェ・ミュージアムを訪ねて、いわば連想でポルシェ社とレカロ社(旧ロイター社)の、そしてもちろんフォルクスワーゲンとの絆といったものを感じ、なんというか大げさにいえば自動車業界の歴史ロマンのようなものも味わうことになったのである。