桜の咲くタイミングが、地域ごとに違っているのは周知のことだ。しかし、同じ地域の桜は、咲くタイミングが驚くほど揃っている。桜が10本あっても100本あっても同時に咲く。考えてみれば、驚くべきことだ。100本の桜が互いに話し合っているのだろうか。それとも、各々自分でタイミングを計って、それが一致しているのだろうか。
人間にも衣替えというのがある。春になればコートを脱ぐし、もう少し暖かくなると半袖になる。中学生のころ、制服に一斉の衣替えというのがあった。いまはもう少し自由かもしれないが、昔は一斉で、たしか6月の1日と10月の1日だったかと思う。私は少し寒がりの方で6月でも問題なかったが、暑がりの人はもっと早くツメ襟を脱ぎたがった。
人には暑がりも寒がりもあって、同じように気温が変化しても、いつまでも厚着の人も、早くから薄着の人もいる。人間は、季節によって毛が生え替わったり、サカリがついたり、まして花が咲いたりはしないから、生体が季節をどうとらえて反応しているのか不明確だが、暑さ寒さの感覚を頼りに、あるタイミングを一斉に知ることなど不可能だろう。
この、パッと咲いてサッと散ってしまうというドラマ性は、日本人の情緒に強く訴え掛ける。潔さへの共感だろうか、あるいは儚(はかな)さへの感傷だろうか。桜の咲きっぷりに感動を覚えるのは日本人に共通のものだろう。しかし、他の国の人は、どうもそうは感じないらしい。ちょっとしか楽しめなくてつまらない、色形も艶やかさに乏しい、という見方だ。
土のせいか、気候のせいか、日照のせいか?植物学者でないからその辺の事情は分からないが、私はそのケバくなったアメリカのソメイヨシノを、なにか擬人化した感慨で捉えたのを覚えている。しかも、現地の人たちは、その桜を日本人のような情緒で捉えていなかった。あら、綺麗ね、でもこの花はすぐに散ってしまうからね。というコメントだった。
桜の咲く国、日本。3月よりも意識的にチョット薄着をして、司馬遼太郎の本など読みながら、春の一日をゆっくり楽しむ。自分だけの贅沢な時間だ。忙しさに追われて、そんなお洒落な時間の使い方は現実にはできないことも多いが、横浜と仙台で、時間差で2回桜を楽しめたのは、ちょっとお得な気分になれた。・・・桜、綺麗だぁ。