タイトルの漢字が読めないかもしれない。六尺褌は「ロクシャクフンドシ」である。前回、水泳の話を書いているうちに、褌と古式泳法についてちょっと語ってみたくなった。褌姿の若者の写真は、私の出身高校のものである。この高校では、1年生の夏休み中に千葉県館山の海で全員参加の水泳の合宿をする。おそらく何十年間ずっと変わっていない。
実際、私もこの通りのことをした。リアルにこういう光景なのだ。それは質実剛健をモットーとしてのことだが、実は学校にプールがないという都合によるものである。文部省(文部科学省)の定める高校3年分の水泳の授業を、1年生のしかも夏休み期間中に海で一気に全部やってしまおうという乱暴なカリキュラム。そしてそのコスチュームが六尺褌である。

日本男児たるもの褌くらい締められなくて何とする!というくらいの精神論なのだが、褌で泳ぐことに実用上の意味は見いだせない。「褌を締め直して掛かる」という日本語は今でもあって、単に自己暗示だとしても、確かに褌をキュッと締めると精神も引き締まる思いがする。日本男児に生まれたからには一度くらい経験しておくのも悪くない。

水練においても輿担ぎにおいても、あるいはパンツ文化以前の日本の庶民生活においても、褌の主流は六尺褌である。漫画やコントではT字型に紐のついた越中褌の方が良く見られるため、褌とはT字型のものだと思っている向きが多いと思うが、主流たる六尺褌は幅1尺~1尺5寸(約30~45cm)、長さ6尺(約180cm)のただのさらし布だ。
締め方をここで説明するのは困難だが、締め上がった状態は写真のように見事なTバックになる。フロントは少し布幅が広がっていて、重要な部分を包むのだが、越中褌のような前垂れはなくて、外観デザインはとてもシンプル。見ようによってはこれほど男らしいものはない。これで泳ぐと、尻のペタまで日焼けするし、前もT字に日焼けする。

1学期の終わりころに、指定の六尺褌(ただのさらし布)を学校の売店で買わされ、体育館に集められて、巻き方を教わる。その場で何度か体育着の上から巻く練習をして、あとは家で裸になって反復練習してこいと言われる。合宿に行ったら、もたもた巻いている時間はなくて、サッと準備ができないと置いて行かれるのだ。

体育館の練習の時点で、この巻き方の練習がさほど重要だと思う者はいない。だいたいは、友達の姿を見て笑うくらいで、家に帰って不安になって2~3回練習するが、こんなもんだと高を括って合宿本番に向かう。たまに、大事な部分に当たる箇所だけ布を補強してくる奴とかいたが、そういう潔くないスタンスは現地ではかえって友達の笑い者だ。

褌を締めるテクニックが如何に微妙で、如何に重要かに気づくのは、現地に行ってからである。昼前に到着し、昼食後に民宿の部屋で褌を巻く。まだ友達同士笑い合っているが、殆ど全員がきつく締めすぎてしまう。褌一丁で公道を歩いて、ファッション水着の若い男女が集う浜辺に向かうのだ。その不安心理のために、しっかり締めてしまうのである。

ところが、このことが思わぬ災いを招く。股ズレするのである。さらし布に伸縮性は期待できない。化繊のような滑らかさもない。歩くたびに内股の最上部(付け根あたり)が擦れる。往きはまだ良い。海から上がると皮膚はふやけているし、布は濡れていて、砂やら塩やら付いている。民宿まで変なガニ股で帰るが、腿の付け根が赤くヒリヒリになる。

一晩寝て、翌朝は生乾きの褌を締める。この時は昨日の反動で、ほぼ全員が緩く締めすぎてしまう。すでに赤く腫れているので、その部分が擦れないようにギリギリの緩さに巻く。これが水に入って布が濡れると、少し延びて、泳ぐうちには多少緩んだりして、許容以上に緩くなってしまうのである。そうすると、別な意味で危険な状況になる。

元来さらし布には伸縮性がないので、平面的な布で立体的な内容物を包み込むことに無理があるのだ。緩すぎると布の横の隙間から内容物がダイレクトに見えてしまうし、場合によってはこぼれてしまう。これは男らしすぎる。褌は、増し締めみたいなことができない。一旦完全にほどいて巻き直すしかないのだが、流石に浜でそれはできない。

そんなこんなで、褌ひとつが丁度良く締められるようになるまでに、2~3日かかるのである。その頃には堂々としたもので、羞恥心はどこかに消し飛んで、自分自身も褌姿が格好良いような錯覚に陥っている。この学校の褌は白だから、濡れると透けてしまい、恥ずかしいのだが、そんなことも全く気にならなくなる。集団心理、恐るべし。

っで、その褌姿でどんな水泳を教わるのかというと、クロールとか平泳ぎのような近代泳法(4泳法)ではない。古式泳法(日本泳法)なのである。最終日には4kmの遠泳がある。浜から1km沖に出て、横に2km泳いで、1km浜に向かって戻ってくる。どのくらい深いのか知らないが、海は真っ黒でうねりもある。溺れたら死にそうな感じの、結構なチャレンジだ。
高校時代にそんな海の合宿を経験して、股擦れしながら覚えた褌の締め方が役に立つことはまず無いが、古式泳法を覚えたことはその後のマリンレジャーに本当に役立っている。古式泳法とマリンレジャー、言葉の響きは対局だが、実にマッチングがよいのだ。自然の中で泳ぐという意味では、これより他に有効な方法がないとすら思う。

トライアスロンをするような人は、海でもクロールでガシャガシャ泳ぐが、一般人は海でクロールはしない。レジャーの海でそれをやってるとかえって変だ。平泳ぎを変形したような、顔を出しっぱなしの蛙泳ぎをする人が多いが、あれは意外と進まないし疲れる。シンクロのような掻き回す感じの立ち泳ぎ(踏み足?)も素人に長時間は難しい。
古式泳法は、海で泳ぐのに実に適している。深い海でもリラックスしてずっと浮いていられるし、必要とあらば目的の方向にわりと効率よく進めるのだ。砂浜のない岩場の入り江でも遊べるし、ボートダイブでインターバルの時間に広い海のど真ん中で泳ぐのは実に気持ちが良い。そもそも海で遊ぶとき全般に気持ちにゆとりが持てる。

古式泳法のキモは、必要以外の筋肉を弛緩することに尽きる。これは近代泳法でも同じことなのだが、スピードや効率を目指した近代泳法で必要意外の筋肉を弛緩できるのはかなりの上級者だ。古式泳法は、エネルギーの消費率を抑えて、言わばのんびり泳ぐのに適しているので、水の中で筋肉を弛緩する感覚を覚えるのには近道なのだと思う。

なぜ筋肉弛緩なのか。筋肉は力を入れると引き締まって密度が上がる。そうすると比重が重くなって沈むのだ。人間の比重は1.1くらい。肺に空気が入っていると1.0以下になる。海水は塩分のために比重が重いから、あとチョットだけ手足を掻くと口が水面上まで出る。しかも常時出す必要はなく、波やうねりを利用してときどき出れば十分なのである。

海で古式泳法で泳ぐテクニックは、プールで近代泳法で泳ぐテクニックとかなり違っている。なので、プールでは連続300mくらいが限度で苦しくなってしまう私だが、海だったら深かろうが多少波があろうが今でも2km以上泳げると思う。プールでばかり泳いでいる人は逆になる。波があったらクロールは難しくなるし、深い海では不安になるだろう。
海で泳ぐ際に一番重要なことは、自分は溺れないという自信だと思う。不安になると筋肉に力が入って、そうすると沈むから余計に掻く。その悪循環で溺れる。つまり、溺れるかもという不安こそが溺れる原因なのだ。高校のとき、練習で何度も溺れかけながらその原理を身体で理解したことが、今でもリラックスして泳げることに繋がっていると思う。

結論として、褌と古式泳法はセット商品ではなくて、褌は精神論だったが古式泳法は実用だった。若い頃に習ったことがそんな風に後の人生に役立つというのは、なんだか嬉しいことだ。・・・って、他の事例をあまり思いつかない。スキーはかなり打ち込んだが、他に応用できた試しがないし。英語とか、もっとやっとけば良かったかなぁ。
・・・あぁ、褌もこんな話のネタくらいには役立ったかも(苦笑)。