「自由」について、あまり深く考えたことがない。もちろん哲学みたいなものを勉強したこともない。先日、昼休みにサンドウィッチを買いに行く途中、歩きながらふと自由について考えてみたくなった。Wikipediaによれば、英語でフリーダムとリバティには微妙な違いがあるのだそうだ。フリーダムは義務を免除された状態で、リバティは権利を与えられた状態なのだと。なるほど。そういえば無料のことを英語ではFreeと言う。
自由の種類として、思想の自由、信教の自由、学問の自由、表現の自由、職業選択の自由などが上げられている。いかにも、自由がなかった時代の分類だなと感じた。いまの日本国民はあまねくそれらの権利が与えられているし、義務から解放されている。当たり前すぎて、それが自由だとすら感じない。最近の若者が「自由」という言葉を使うのは、むしろ傍若無人に近いことが多い。それは自由とは違うだろ、と現代人の私ですらツッコミたくなる。

サンドウィッチを買いに向かいながら私が思ったのは、それらとチョット違う。自由であることは難しいなぁ、という思いである。私は上記のオーソドックスな分類とは違う観点で自由を考えてみた。最初は、権利上(義務の免除も含む)の自由である。これは解り易い。20歳になったらお酒を飲んでも良い。免許証があれば車を運転しても良い。自由には責任が伴うとは言い古された言葉だが、まぁ自然に理解できることである。とくに違和感はない。

しかし、権利における自由が与えられたら本当に自由に行動できるかというと、そうでもない。そこには環境条件が必要だ。例えば免許を持っていても道路がないとすれば、結局どこにも行けない。免許がないのと同じだけ不自由だ。電車の中でDSをやりたくなって、尚かつそれが認められていても、通勤ラッシュだったら狭すぎて楽しめない。自由な権利に基づいて自由に行動できるためには、環境条件的な自由がなければならないのだ。

では、権利と環境が整っている場合を考えよう。クルーザーで海に出てイルカと戯れる。自由の象徴みたいなシーンだ。海に飛び込んだら、イルカはとてもフレンドリーに接してくれる。しかし、一人は小谷実可子さんでもう一人は金槌のおっさんだった。小谷さんはそれこそ自由自在にイルカと戯れるが、金槌のおっさんは生死の境をさまよう。溺れかけているのだ。権利も環境も整っていても、能力における自由度というのがありそうだ。

では、権利も環境も能力も条件が整っていたとしよう。彼は広告代理店に勤めて、かなり良い給料をもらっている。成人だし妻帯してないし、キャバクラに行くのは自由だ。試しに行ってみたら話が弾んで楽しいじゃないか。彼には営業で鍛えた会話力もある。キャバクラは毎日オープンしていて、聞けばその娘は月~金で出勤しているそうだ。彼は自由に好きなだけキャバクラに行ける。しかし、そうして通ううちにクセになってしまった。

今日は行かないようにしようと思うのだが、ついつい行ってしまう。今日こそは真っ直ぐ帰るぞと思っても、やっぱりどうしても行ってしまう。もはや彼は行かずにいられないのであって、自由に行っているのではない。縛られているのだ。権利も環境も能力も自由なのに。彼はとても不自由な状況にある。お酒や煙草もそうだ。権利を行使するうちに依存して縛られてしまう。仕事もそうかもしれない。多くのことに当てはまる。

本当に自由に行動するためには、権利における自由だけではぜんぜん不十分で、環境面での自由があって、能力的な自由を獲得して、その上で心理的な自由を維持しなければならない。そんなことできるのか?信教の自由を叫んでいた時代の人は、宗教にとらわれることがむしろ新たな制約を生む可能性については想像しなかったかもしれない。考えるほど、何が自由なのか分からなくなってきた。何者にも縛られずに生きることなんて、無理かも。

尤も、世の中思い通りにいかないからこそ楽しいのであって、人間心理の面から言えばときどきふっと感じる些細な自由こそが自由の本質なのかもしれない。今の世の中、あらゆる権利が認められていて、環境も整っている。チャレンジ精神さえあれば、なんでもできる。たまには日常と違ったことに挑戦してみるのも良いかも。・・・そんなことを考えていたら、何となくいつもと違うサンドウィッチをチョイスしていた。そして、いつもと違うランチの自由を満喫することができたのだった。自由って素晴らしい。