モータージャーナリストの大谷達也氏が、伝説のスポーツモデル「Audi Sport quattro」でモナコを目指した。 積年の夢は、いともあっけなくかなえられた。

Audi Sport quattro。1980年代半ばの世界ラリー世界選手権に挑む権利を手に入れるため、わずか210台だけが生産された幻のロードカーが私たちに貸し与えられたのは、最新のRSモデルでアルプスの山々を駆け抜ける「Audi Land of quattro」というイベントの最終日、フランス南部のヴァール峠でランチを済ませたときのことだった。

ここから当日の投宿先であるモナコのホテルまで、この歴史的にも貴重なクルマを私たち日本人チームに貸し与えてくれるというのだ。


ヴァール峠からモナコまでは、およそ200km。この間には、モンテカルロラリーのルートとしても名高いチュリニ峠が含まれている。つまり、ヴァルター・ロールやスティグ・ブロンクヴィストが疾走したのと同じコースを、その競技車のベースとなった希少なロードカーで走れるわけだ!

実は、私たち日本チームに属しているメディア関係者は4名だったが、私はコンビを組んでいたMM誌のNさんとふたりだけで、この200kmの大半をAudi Sport quattroで走りきった。しかも、一切のお目付役なしに! クルマ好きにとって、これ以上贅沢な経験は滅多にないだろう。

そのときの印象について語り始める前に、まずはAudi Sport quattroがいかに特別なマシンであるかについてご説明しよう。

1981年よりWRC(世界ラリー選手権)への参戦を開始したAudi quattroは、それまでのラリーの戦いを一新させてしまった。Audi quattroがデビューするまで、ラリーカーといえども2WDが基本だった。つまり、ターマックと呼ばれる舗装路はもちろんのこと、雪道や未舗装路などのいわゆるグラベルでも、後輪駆動か前輪駆動のどちらかで走り、覇を競っていたのだ。

そこにフルタイム4WDを装備したAudi quattroが登場したのだから、ライバルたちはひとたまりもなかった。デビューイヤーの1981年、2勝を挙げたハンヌ・ミッコラがWRCシリーズ3位に食い込んだのを皮切りに、アウディは2度のドライバーズ・チャンピオンと2度のマニュファクチュアラーズ・チャンピオンの計4タイトルをWRCで手に入れることになる。

しかし、アウディの成功を目の当たりにしたライバルメーカーの反応は速かった。3年後の1984年にはプジョー205ターボ16とMGメトロ6R4という2台のミドシップ4WDラリーカーが登場。翌1985年にはランチア・デルタS4がデビューし、コンペティションのために開発された4WDラリーカーが続々とAudi quattroの前に立ちはだかったのである。


こうしたライバルたちの反撃を予想していたアウディは、いち早く初代Audi quattroの改良に着手する。フロントに搭載していた5気筒ターボエンジンはブロックを軽合金化するとともにヘッドを4バルブにしてそれまでの200psから300psへと大幅にパワーアップ。ボディパネルを複合素材のケブラーで作ることにより、全長4165mmのボディをわずか1300kgで仕立てたのである。

しかし、なんといってもその外観上の特徴は極端なショートホイールベースだろう。初代Audi quattroのホイールベースを320mmも切り詰め、2205mmとしたのである。ちなみに、フォルクスワーゲンup!のホイールベースが2420mmだから、Audi Sport quattroはそれよりさらに200mm以上も短かったことになる。しかも、全長はup!より600mm以上も長いのだ!


その外観上のバランスの悪さ、少しネガティブな表現をすれば"奇っ怪さ"は、写真を見ていただければすぐにおわかりいただけるだろう。おそらくはフルタム4WDとしたことでアンダーステア傾向が強まり、これを打ち消すためにショートホイールベースにしたのだろうが、そのなりふりかまわずスピードを追求する開発者たちの姿勢は、このクルマに底知れない迫力と凄みを与えたのである。

後編に続く......

(Text by Tatsuya otani / Photos by Audi AG, Tatsuya otani)