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はじめまして、イシカワエンジニアリングの石川です。「イシカワのテクニカル ティップス」では、皆さんから届いたさまざまな質問に、クルマ業界23年間の経験から得た知識の範囲で可能な限りお答えさせていただきます。まずその前に、私の自己紹介から。
学生の頃より高性能な小型車に興味があり国産車の中では独創的な技術を持つメーカー「ホンダ」に憧れ、1985年にホンダ技研系列のホンダ車両販売会社にメカニックとして入社。当時ホンダは2代目プレリュードが爆発的なヒットと併せて斬新的なCR-X、インテグラの登場で販売台数が飛躍的に伸びた時期だった。今では考えられないかも知れないが当時は最初からエアコンはついてこないのが普通で、カーエアコンはディーラーのメカニックが納車前に取り付けていた。そんな納車ラッシュの中、一般整備、法定点検、車検などの日常業務をメカニック3、4名でこなしていた。またエンジンやミッション分解などの重整備も、当時はリビルトパーツが存在しなかった為すべてディーラーにおいて対応していた。そんな環境の中で仕事をすることは、メカニックにとって非常に貴重な経験を積むことが出来た時代でした。そして在籍中にひょんなことから1982年式のMINI 1000を購入し外車の面白さを初めて経験する。その後、4年ほど在籍したホンダを退職しました。

090401factory001.jpgバブル絶頂期の1989年にドイツ車を中心とした並行輸入業者に就職し、整備、販売、輸入などに携わることになる。今では考えられない夢のような時代で1千万円級の車がバンバン売れる時代。輸入後の港引き取りから仕上げ、整備、販売、登録、その後のユーザーフォローまでをすべて一人でこなさなければならなかった。つまり、通常の販売ディーラーでは分業されている業務をすべて一人で行うようなもの。すべての並行輸入業者がそのような形態ではなかったと思うが、私が就職した会社はとにかく過酷を極めた。就業時間は例外なく翌日だった。何せ在籍していた約5年間で1年以上続いた社員を見たことがない。笑い話だが、自衛隊を満期退役して入社してきた社員がいた。体力には自身があると言っていたがそんな彼でさえ、数日後にポストに会社の鍵が入っていた。おそらく体力の問題ではなく、あまりにやることが多く、何が自分の仕事なのかを示されないまま長時間働くことに理解できず、先が見えなくなってしまったのだろうと思う。

090401gti_a3001.jpg当時扱う車の種類は、メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、ジャガー、ロールス、ベントレーなど。当時並行輸入車の整備は正規ディーラーでは請け負ってもらえず、そしてろくな整備書もない状況で、悪戦苦闘しながらも輸入車ディーラーに就職した同級生や知人から情報を得ながら何とかこなしていた。ホンダ時代に行っていた仕事を振り返り、クルマを理解していたつもりだったが本当の意味で理解していなかったと痛感した。整備書も配線図もない故障した車が目の前にあるとき何処から手をつければよいか分からず途方に暮れた。しかし、悩み続けると何とかなるもので、ぜんぜんその車とは関係のない整備学校時代の教本が非常に役立った。その時、改めて基本的な構造を知っておくということが重用だと学び、各メーカーでどのようにその基本構造と違うのかという考え方をするようになると、なぞなぞが解けるように整備が楽しくなった。当時所有していた車は唯一の自慢だった1976年式のポルシェ 911カレラ 3.0を所有していたこと。ナンバーも「911」を所有し、夜中に気分転換でよく走っていたことを思い出す。ホイールを911ターボの純正でフロント8J、リア9Jに換装しボディ同色に塗装した。本当にきれいなラインで見ているだけでも満足だった。ポルシェに関しては、ユーザーの車両も自分の車もすべて、ポルシェ乗りにとっては「神様」と称されたポルシェ職人の工場で面倒をみてもらっていた。第三京浜の傍らにあるこの会社は看板すら出ておらず、外観からはとてもポルシェを扱っている会社には見えないが、入ってみるとポルシェだらけ。最初は社長に言われポルシェを回送するだけ、修理に持って行ってもまともに口も聞いてもらえなかった。きっと、またすぐに辞めていなくなる若造と思われていたのでしょう。でも何年か経っても相変わらず居るのを分かってもらえたのか、工場の中で整備を見せてもらったり、構造を教えてもらったり、自分でポルシェを買ってからは更に勉強をさせてもらい、当時私にとっての憧れであり、現在の見本になった工場でした。しかし残念なことに数年前に仕事中の事故でお亡くなりになったことを知り、驚きと共に非常に残念で当時のことをより思い出しました。

そんな時代を過ごした会社もバブルの崩壊により倒産の危機になり、ポルシェも売却し私自身も退社することになります。1994年の秋でした。それまで勤めた並行輸入業者での経験はあまりにも壮絶で、もう会社組織に再就職して何か一つの職務に携わるという気持ちが起きませんでした。そんな時、当時取引先であった並行輸入車の予備検査(日本の法律に合うように構造等を変更する業務)を主に行っている会社の社長に声を掛けられて請負で仕事をすることになります。ここが独立の始まりでした。

1995年ドル円の為替レートが100円を割り込み一時79円をつける超円高です。そんな時期と重なってアメ車の大ブームがありました。シボレーアストロ、カプリス、サバーバン、タホなどなどカスタムされた車がわんさか輸入された時です。私が急遽請け負ったのは輸入の手続き(通関)です。日本中の並行業者より予備検査の依頼を受けるこの会社は、横浜港に到着する車両を横浜で通関をして、横浜陸運支局で予備検査を終了させて全国の並行輸入販売業者の元へと納車します。今までの仕事とは畑違いですが、以前の会社でも見て知っていたのでやることになりました。一回の通関で何十もの申告書を行い、何十台もの通関を毎週毎週約3年近く行うことになります。そんなことで、アメリカに在る車を送ってくる会社とコミュニケーションをとることが多くなり、年に何度か渡米するきっかけとなりました。それが後々、NEUSPEEDを知ることにつながります。

当時、毎日のように第三京浜を利用して横浜本牧、大黒埠頭へ通っていましたが、足に使っていたのが1986年式のゴルフ2 CLIでした。当時はお金がなかったので、知り合いに何でもいいから安い車ということで購入した車で、それまでフォルクスワーゲン、アウディには全くと言っていいほど興味はなく、並行輸入会社で働いていた時も殆ど乗る機会がなかった車種でした。最初は何も考えずに乗っていたゴルフ2は、特に速いわけでもないし、それほどカッコいいわけでもない、でもなんとなく体になじむというか、一体感がある。3ATのわりには高速でもそれなりに走れるし、なんとなく走っていて気持ちが良いということに気が付いた。最初はお金をかける気は更々なかったが、気が付いたらホイールを変えたり、4灯グリルに変更したりといつのまにかゴルフ2に嵌っていた。この車はそれほどチューニングを行ったわけではないが、何かを変えるとその変わった感が楽しい車だということが分かった車だった。でも、そのときは、ここまでフォルクスワーゲンに深く関わるとは全く思っていなかった。

090401company001.jpg1998年。いよいよ今までの仕事にもピリオドを打つことになり、ここまで経験したことを何とか自分なりに形にしたいと思い、何か夢のある仕事をしたいと考えました。今までの整備に携わった経験ではどちらかといえばネガティブな要素が多かったのです。例えばクレームに対しての修理であったり、不測の故障による修理であったりなど、修理代をいただく際にユーザーにとってはうれしくないお金を支払うというものでした。でも私が以前ポルシェを所有していた時に修理代を支払っていても良くなっていくことに喜びを感じていたことを思い出し、自分もそのような仕事をしたいということを考えたのです。そんな時、アメリカの「NEUSPEED」というメーカーをある雑誌から知ることになり、米国でホンダのパーツを展開していることにも興味を持ちます。フォルクスワーゲン パーツも豊富だったこのメーカーを会社設立の1ヶ月前に渡米し幸運にも取扱いをさせてもらうことになります。その後帰国し、現在のイシカワエンジニアリングを設立し、紆余曲折を経て現在に至ることになります。

以前から当社を知っていただいている方には意外だったかも知れませんが、特別フォルクスワーゲン、アウディに係わった経験があるわけではありません。イシカワエンジニアリングを設立し、NEUSPEEDというネームバリューがあってフォルクスワーゲン、アウディに係わるチャンスをもらいました。フォルクスワーゲン、アウディに深く携わることで当時ゴルフ2を所有していた時に変化に対して喜びを感じるという気持ちを思い出し、その喜びをユーザーにも感じてもらえるようにと仕事を行ってきました。これからもフォルクスワーゲン、アウディに係わり続けることが出来るように探究心を忘れずに続けて行きたいと思っています。

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