131227-Oya-03.jpgイタリア直送 大矢アキオの
かぶと虫! ビートル! マッジョリーノ!

第1回 かぶと虫前夜

イタリアで文筆業をしてかれこれ18年になるボクは、1966年に東京の西郊で生まれた。昭和でいうと41年である。

両親は蕎麦屋を営んでいたので、兄弟のいないボクは日中の多くをひとりで過ごした。そうした時間のお伴は、家にあった「自動車ガイドブック」「外国車ガイドブック」だった。

なぜ、ガイドブックが家にあったか?というと、父母ともにクルマ好きで、東京モーターショーには第1回の日比谷公園時代から毎年(当時は毎年開催だった)馳せ参じていたからだ。

物心つく前は、当時モノクロだったガイドブックの自動車写真にクレヨンで色を塗って楽しんでいた(ようだ)。やがて毎日窓外にやってくるお客さんのクルマを、ガイドブックに乗っているクルマと引き合わせて楽しむようになった。

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休日はそれほど遠くない国道16号線沿いのドライブインに両親とともに行くのが、おきまりだった。2軒あるドライブインの屋上はいずれも展望台になっていて、隣接する米軍横田基地が見渡せるようになっていた。

ボクは毎週のように、金網の向こうを走る米国車を飽きることなく眺めていた。今考えると、それは非常にラッキーだった。なぜなら1973年にドル-円に完全な変動相場制が導入されると円高がじわじわ進行し、駐留米軍人たちは、たちまち安価な日本製中古車に乗るようになってしまったからである。

ところで、そのドライブインに行くときを含め、当時我が家の足は、赤い英国製大衆車だった。なぜそんなものに乗っていたのか?というと、これも横田基地と関係ある。当時は、米軍兵相手の自動車屋さんが周囲にたくさんあって、さまざまなルートで流れてきた、さまざまなメイク・さまざまな程度の中古車が売られていたのである。

そう、大事なのは、「さまざまな程度の」という部分である。

その英国車は、それまでバイクに乗っていた父が、ボクが生まれた年に8万円で手に入れたものだった。

子どもの目で見ても品が良い赤いボディカラーに、革シートが組み合わされていた。

しかし、すでに車齢10年を超えていたうえ、異国で酷使された経歴は隠せなかった。セカンドとサードギアは抜けやすく、助手席に乗ったボクはシフトレバーをよく押さえる役目を負わされた。冷却系統も弱く、父は毎日のように、やかん片手に水を足していた。おかげでボクは「オーバーヒート」という単語を幼稚園入園前に覚えた。スターターがヘソを曲げた日は、クランクのお世話になった。雨の中、ワイパーが死んだこともあった。しまいには隣町の踏切の中で止まってしまい、家族で必死に押したこともあった。

修理費用は1年車検と相まって、我が家の家計簿に重くのしかかった。こうした苦難の連続に、さすがの父も新しいクルマに買い替えることを考え始めたのだった。 <つづく>

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幼稚園時代の筆者。親にせがんで新幹線に初乗車。ただし、親の財布の都合で「こだま」で熱海日帰りだった。

(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)

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