090414otani003.jpg 毎月1回は仕事で仙台に来る。今も仙台でこれをタイプしている。昨日の夜、仙台市内に一泊して、今朝地下鉄で北に向かって終点の泉中央から車でさらに30分ほど北に走った大和町(タイワチョウ)というところだ。こちらに来たら、桜が満開である。横浜では満開は2週間前で、近くの公園でチョットだけ花見をしておにぎりを食べた。

桜の咲くタイミングが、地域ごとに違っているのは周知のことだ。しかし、同じ地域の桜は、咲くタイミングが驚くほど揃っている。桜が10本あっても100本あっても同時に咲く。考えてみれば、驚くべきことだ。100本の桜が互いに話し合っているのだろうか。それとも、各々自分でタイミングを計って、それが一致しているのだろうか。

人間にも衣替えというのがある。春になればコートを脱ぐし、もう少し暖かくなると半袖になる。中学生のころ、制服に一斉の衣替えというのがあった。いまはもう少し自由かもしれないが、昔は一斉で、たしか6月の1日と10月の1日だったかと思う。私は少し寒がりの方で6月でも問題なかったが、暑がりの人はもっと早くツメ襟を脱ぎたがった。

人には暑がりも寒がりもあって、同じように気温が変化しても、いつまでも厚着の人も、早くから薄着の人もいる。人間は、季節によって毛が生え替わったり、サカリがついたり、まして花が咲いたりはしないから、生体が季節をどうとらえて反応しているのか不明確だが、暑さ寒さの感覚を頼りに、あるタイミングを一斉に知ることなど不可能だろう。

090414otani001.jpg桜はどうやって開花のタイミングを計って、しかもそれが寸分違わず揃うのだろう。もしかしたら、それは植物にとっては珍しいことではなく、他の種類の花でもある程度揃って咲くのかもしれない。しかし、桜は開花期間が短く、パッと咲いてサッと散ってしまうため、揃っていることが余計に劇的に印象深く感じられるのかもしれない。



この、パッと咲いてサッと散ってしまうというドラマ性は、日本人の情緒に強く訴え掛ける。潔さへの共感だろうか、あるいは儚(はかな)さへの感傷だろうか。桜の咲きっぷりに感動を覚えるのは日本人に共通のものだろう。しかし、他の国の人は、どうもそうは感じないらしい。ちょっとしか楽しめなくてつまらない、色形も艶やかさに乏しい、という見方だ。

090414otani002.jpgしかも、桜自信もそのあたりの事情を知ってか知らずか、海外では花の色が少し違う。かつて日本から親善目的でカリフォルニアやワシントンDCにソメイヨシノを送って、結構な本数が植樹されている。以前、春先に彼の地を訪れて桜の満開を見たが、ピンクが少し濃くて、日本のものよりも毒々しく見えるのである。桜らしい可憐さがなく、派手でケバくなっている。


土のせいか、気候のせいか、日照のせいか?植物学者でないからその辺の事情は分からないが、私はそのケバくなったアメリカのソメイヨシノを、なにか擬人化した感慨で捉えたのを覚えている。しかも、現地の人たちは、その桜を日本人のような情緒で捉えていなかった。あら、綺麗ね、でもこの花はすぐに散ってしまうからね。というコメントだった。

桜の咲く国、日本。3月よりも意識的にチョット薄着をして、司馬遼太郎の本など読みながら、春の一日をゆっくり楽しむ。自分だけの贅沢な時間だ。忙しさに追われて、そんなお洒落な時間の使い方は現実にはできないことも多いが、横浜と仙台で、時間差で2回桜を楽しめたのは、ちょっとお得な気分になれた。・・・桜、綺麗だぁ。

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